インド洋津波から12年のアチェ

数か月ぶりのアチェ訪問。前回の滞在は会議ばかりで街に出る時間があまりとれなかったけれど、今回は短い滞在ながらも郊外を含めて外に出かける時間が少し取れた。
2004年12月のインド洋津波から13年目を迎えようとしているバンダ・アチェでは、津波の被害と復興の経験を世界の人たちと共有することで将来の津波犠牲者を減らそうという動きと、12年以上前に起こった津波で犠牲になった人たちを弔い、親しい人を失った人たちの心の痛みが癒えるのを支えようとする動きと、アチェ内外のいろいろなものを柔軟に組み合わせて利用することで津波後の新しいアチェ社会を作ろうとする動きのそれぞれが見られた。


津波を記録して伝える
津波後に作られて一般の観光客向けに公開されているバンダ・アチェ市内の施設の津波博物館、電力船、ボートハウスなどのうち、電力船は公園化がさらに進んでいた。船の内部に入れるようになり、内部には津波関係の展示が置かれていた。津波博物館にも頑張ってもらいたいけれど、こちらの方がメインになりつつある感じ。
ボートハウスは相変わらず。しばらく前に来訪者に通し番号付きの参観証明書を発行していたけれど、バンダ・アチェの市長がかわって発行しなくなったとか。


津波の犠牲者を弔う
インド洋津波ではアチェ州だけで死者・行方不明者あわせて約14万3000人の犠牲が出たため、1人1人の身元を確認して個別に埋葬する余裕がなく、犠牲者の遺体は市内10か所の集団埋葬地に埋葬された。自分の近親者や友人・知人がどの埋葬地に埋葬されたかわからないけれど、きっと誰かが見つけてくれてどこかの集団埋葬地に埋葬されているはずだと思い、毎年12月26日に最寄りの集団埋葬地を訪れて祈りを捧げるという習慣ができてきた。
このように遺体なしで弔わなければならないという状況を受け入れた上で、それでもなんとかして近親者の遺体を見つけて個別に弔いたいと思っている人たちもいる。津波から10年以上が経った今でも、ときどき津波犠牲者の遺体が見つかったというニュースが報じられる。先月も、任務中に津波に襲われた警察機動隊員の遺体が12年ぶりに発見されて身元が判明したらしい。集団埋葬地の碑に彫られた埋葬者の数が修正されていた。


津波後のアチェ
バンダ・アチェ市内のアチェ州立博物館(津波博物館ではなくて歴史博物館の方)の前の歩道に、約300メートルにわたって黄色い視覚障害者誘導用ブロック点字ブロック)が置かれていた。これは日本を訪れたシアクアラ大学の学生の発案で導入されたもの。
Arthikaはアチェ内陸部ガヨの出身。父親の影響で小さい頃からメカが好きで、将来は日本でロボット開発の研究をしたいと思い、女の子なのにロボットが好きなんてとまわりに不思議がられていたという。
津波後の調査をしていた京大チームが仮設住宅で1組の被災者夫妻に出会い、聞き取りの過程でその夫妻の実家があるガヨを訪ねたとき、親戚の孫娘として紹介されたのがArthikaだった。
大学では土木工学を学ぶ道に進み、2015年には在デンパサール日本領事館のエッセイコンテストで優勝して日本への往復航空券を手にして東京や京都を訪れた。日本で見た歩道の点字ブロックアチェにも導入できないかと研究したところ、その研究が目に留まって試験的に導入されることになった。
そこですごいのが導入場所をどう決めたか。実際に使ってもらえるようにとまず盲学校周辺を選んだ。試験的な導入だし予算の制約もあるのですべての道に点字ブロックを作ることはできないし、アチェではまだ点字ブロックの意味が十分に知られていないからということで、まず点字ブロックの意味を知ってもらうために重要な場所と考えて、州知事公邸に近くて州内外からの訪問者も多いアチェ州立博物館の前を選んだという。未確認だけど点字ブロックの設置はアチェの州法にも盛り込まれたそうで、Arthikaはこれから人々の認知が高まっていけばと話している。
彼女は今年シアクアラ大学を卒業して、日本の大学で勉強が続けられることを希望して日本語の勉強を続けている。
子どものころにロボットの漫画やアニメを見て日本に興味をもって、日本のアニメやドラマや映画で日本語を勉強して、機会を捉えて日本を訪れて、そうやって自分のキャリアに繋げていくとともに出身地の暮らしの改善を目指す思いを両立させるということが、夢物語ではなく一歩ずつ実現していく様子をこの数年来見せてもらっている。


話はかわるけれど、シアクアラ大学と日本との関連でもう1つ。
バンダ・アチェ市内の川向うにあるシアクアラ大学構内のたこ焼き屋さん「はな」。はじめたこ焼き屋と聞いたときには移動式の屋台で焼いているのかなぐらいに思っていたけれど、行ってみてびっくり。広い敷地のあちこちの木陰にテーブルと椅子が置いてあって、お客は思い思いのテーブルについてたこ焼きを食べたりコーヒーを飲んだりしながらくつろいでいる。庭が広いので一度に数十人は入れる規模で、それでも訪れた日は満席だった。その9割ぐらいが女性客。男性客は最近増えてきた方だとか。
木陰が多いので隣のテーブルの様子が見えるようで見えない雰囲気や、従業員を女性だけにしていることもあって、女子学生たちの隠れ家的な場所になっている様子。制服を着た女性たちがきびきび仕事をしており、たこ焼きをひっくり返す姿やお好み焼きにマヨネーズを振る姿が堂に入っている。


ついでに。
スマトラ沖地震津波インド洋津波)から10年間の様子を日本語で読むならこの本を。
被災地に寄り添う社会調査
同じ内容をさらに少し詳しく読むにはこの本も。
災害復興で内戦を乗り越える スマトラ島沖地震・津波とアチェ紛争

インドネシア映画『Rafathar』

インドネシアで劇場公開中の映画『Rafathar』を観た。超能力を持ったスーパー赤ちゃんを誘拐しようとした2人組がさんざんな目に遭うコメディ。
タイトルのラファタル(Rafathar)は主役の赤ちゃんの役名で、それを演じた赤ちゃんの本名でもある。両親は役者で、父は誘拐犯役、母は刑事役で2人ともこの映画に出ている。生まれてきたラファタルがあまりにもかわいかったので『コミック8』や『ワルコップ』の制作陣と組んでラファタルを主役にした映画を作ったということか。
劇中で、ラファタルは赤ちゃんだけど実はインドネシアの研究所が極秘裏に開発した超兵器で、金属製のものを念力で自在に動かすことができる。研究所はラファタルを外国に売って儲けようとするが、開発に関わった博士が最後に思いとどまってラファタルを研究所から連れ去る。逃げ切れなくなってある夫婦の家の前にラファタルを置いたところ、それを見つけた夫婦は子どもがいなかったこともあってラファタルを養子に採ることに。それを知った研究所が闇組織にラファタルを取り戻すよう頼み、さえない2人組が誘拐を命じられる。ラファタルは赤ちゃんなので自分の身に何が起こっているかわからず、たぶんただ楽しんでいるだけだと思うが、フォークやナイフを投げつけたり自分が乗ったスーパーの買い物を走らせたりして、誘拐犯がてんやわんやの目に遭う。
ラファタルを養子に採った夫婦はマレーシア人という設定。妻ミラ役のNur Fazuraはマレーシアの女優で、劇中でもマレーシアのアスワラ芸術学院出身の女優で結婚して最近ドラマに出なくなったという設定。夫ボンダン(PondanではなくBondan)役のArie Untungはインドネシアの俳優だけど、劇中ではマラヤ大学出身。もしかしてマレーシア人の主夫という設定?
女優ミラが養子を採るのでテレビの取材を受けて、記者が「旦那さんに子どもを作る能力がないから・・・?」と尋ねかけたところでミラが慌てて遮るように「これをきっかけにこの子の弟や妹が授かると思っていますわ」と答える。結婚したら赤ちゃんを授かって当然という社会的圧力が根強いことを示しているのか、そういう圧力はいかがなものかという考え方が出てきていることを示しているのか、この部分だけではわからないけれどメモしておこう。
ファズラはマレーシアの『ゴールと口紅』で有名になり、インドネシアでは『ワルコップDKI』の1の終わりの部分にちょっとだけ出ていた。『ワルコップDKI』の2の予告編ではファズラの出番が多い感じだったので、マレーシアの独立記念日にあわせてインドネシアで劇場公開される(というわけではなくてたまたまだろうが)『ワルコップDKI』の2も楽しみだ。

インドネシア映画『Banda』

インドネシア映画『Banda: The Dark Forgotten Trail』を観た。マルク(モルッカ)諸島のバンダ島についてのドキュメンタリー。
前半は、スペインとポルトガルの世界分割の話から香料の話へ。
後半はそこに住んでいた人たちの話。オランダ植民地期の1920年代以降、植民地政府は独立運動に関わった民族主義指導者たちをバンダに流刑にした。指導者たちがバンダで日々どのような暮らしをしていたかが紹介される。印象に残った話はハッタのものが多い。ハッタは時間にとても正確だったので夕方ハッタが仕事を終えて帰るところを見ると5時になったとみんな知ったとか、ボートの側面にインドネシアを象徴する赤と白の色を塗ってオランダ人に怒られたハッタが、海に浮かべたとき海の青い色とあわさって赤白青のオランダの国旗になるように塗ったと言い逃れた話だとか、半ば都市伝説っぽいものも含めていろいろ紹介される。
ときどきインタビューも出てくるけれど、ほぼ全編、レザ・ラハディアンのナレーション付きでバンダの美しい風景をたくさん見せてくれる。
結びはハイリル・アンワルの詩。マルク諸島ゆかりの詩で、いくつもの言語に訳されて欧米でもよく知られている詩だとか。かつて世界と直接つながっていたバンダを再び世界と直接結びつけたいという思いが感じられる。
インドネシア各地からさまざまな人々が集まってきたため東インドネシアで住民構成が真に多民族的になっているのはバンダだけだという。観光開発は歓迎するけれど第二のバリにはしたくないという期待で締めくくられる。
エンドロールには参考文献として学術書が何冊も挙げられていて、学会発表のプレゼンを全部映像でしたような雰囲気があっておもしろい。史実を踏まえた作りだが、現地で暮らす人たちの中には好ましくない描かれ方だと思うところもあるようで、アンボンの劇場で上映されたときには内容に抗議する人もいたらしい。ただしそれ以外の場所で特に抗議があったということはないようだ。

サンシャワー展(3)

サンシャワー展では映像作品がよかった。
特に「ヌサンタラ」は思わぬ掘り出し物だった。6本の短編を全部観たら1時間以上かかった。内容がよかったので1時間でも2時間でもいいのだけれど、これ以外の作品も含めて、映像作品は何分ぐらいなのかが事前にわかると見通しを立てやすくてよいように思った。
以下は映像作品のいくつかについてのメモ。


「ハッピー&フリー」
この作家は映画監督で、フランスで活動経験があるせいか日本では最初に「ブー・ユンファン」と紹介されて、そのうちに「ブー・ジュンフォン」になったと思っていたら、今度は「ブー・ジュンフェン」になった。漢字で書くと巫俊峰で、姓はともかく名前は北京語の発音をローマ字にしているようなので「ジュンフォン」がいいように思う。
「ハッピー&フリー」のメインはカラオケルームだけど、その部屋に入る前に壁に何枚かポスターが貼られている。シンガポールが1965年にマレーシアから分離独立していなかった場合の仮想の世界で、10年ごとに行われたであろうマレーシア結成記念のポスターをそれぞれテーマ入りで描いている。どれもいかにもありそうなテーマとポスターで、すでに気合十分。
カラオケルームでは、マレーシアとシンガポールが一緒に迎えた50周年を祝う歌がミュージックビデオつきでカラオケになっている。過去の映像資料を入れたりしていてこれまた手が込んだ作りだけど、何といってもこの作品の最大の魅力は曲の乗りのよさ。
原曲は「チャンマリチャン」。説明には歌謡曲とあったけれど、民謡または童謡の方がよいだろう。特定の歌手の持ち歌ではなくて子どもがよく歌う歌で、マレーシアとシンガポールでは知らない人がない歌の1つ。インドネシアでもチャチャ・マリチャという名前で知られているらしい。
シンガポールでは独立記念日のテーマソングに使われたこともあるので、シンガポールの非マレー人の間で2番目によく知られているマレー語の歌かも。(一番目は国歌。)
「チャンマリチャン」は、僕のヤギはどこにいるんだろうか、僕の好きな子はどこにいるんだろうかという筋があるようなないような歌で、特に途中の「チャンマリチャン」の部分はどういう意味なのかみんなよくわかっていないけれど歌っている。(「僕の好きな子」の名前だという説が有力だけれど誰もそんなことを気にしていない。)誰もが馴染んでいるけれどその意味は実はよくわかっていない(あるいは、意味がよくわからないからこそみんなが受け入れられる)という曲を土台にして、マレーシアとシンガポールのあり得たかもしれない共通の夢を歌っている。
ミュージックビデオで歌っているのは、どちらもマレーシア生まれで主にシンガポールで活動している2人。民族性は男性がマレー人で女性が華人、主な活動の場は男性がYoutubeで女性が映画や舞台という組み合わせになっている。
女性の方は『881 歌え!パパイヤ』や『ムアラフ』や『イロイロ』で日本でも知られているヤオ・ヤンヤン(Yeo Yann Yann)。
男性の方のヒルジ・ズルキフリ(Hirzi Zulkiflie)は、友人のマイムナとMunahHirziというユニット名で主にYoutube上で活動している。毎年の断食明けに投稿する動画もなかなか工夫されているけれど、私の今のところのお気に入りは「Flawless Singaporean Parody - Beyonce」かな。2015年には毎年6月頃に行われるシンガポールLGBTコミュニティのPink Dotミーティングでマレー人初のアンバサダーに選ばれた。
「ハッピー&フリー」の会場はカラオケルームの設定。ソファーに座って映像を見ながら聞くことができる。ステージにカラオケのセットとマイクがあるけれど、来場者がカラオケで歌ってもいいのだろうか。


「ヌサンタラ」
近隣地域からシンガポール/マレーシアにやってきて、出会いと別れを経験して今があるという6人の物語。カメラの方を向いて自分の経歴を語っているだけだけど、どの話も内容に迫力があって、しかも実話に基づいているというので、サンシャワー展で私の一番のお気に入りの作品。作家は映画『はし』などのシャーマン・オン監督。
福建系の家に生まれた娘が海南系の恋人を紹介したら「あれは使用人階級だから交際はやめなさい」と言われた話とか、日本軍が攻めてきたときに家族と逃げる途中でシンガポールに1人残された娘の幽霊の話とか、アチェ独立運動のためにインドネシアにいられなくなった父に連れられて子どものころにマレーシアに来た話とか、ボルネオ島のリゾート地で中国人夫婦の警護をしていたら一緒に誘拐されててフィリピン領に連れ去られた話とか、いろいろな話が詰まっている。
作品全体のタイトルは「ヌサンタラ」だけど、それを構成するそれぞれのエピソードは「motherland」と呼ばれている。6人の話では、シンガポールに来ることで生まれ育った土地と離れただけれなく母親とも別れている。
各エピソードとも演者が実名で出ていて、各エピソードのタイトルに演者の名前がついている。演者はそれぞれ英語や中国語やマレー・インドネシア語で話すのだけれど、生まれ育ちがわかるような言葉遣いで話していて、それが話の内容とうまく合致しているので、本当にこの演者の経験を話しているのかと思ってとても驚いた。ただし実際は実話をもとに脚本を書いてそれを演者が語っているようだ。
6つのエピソードのうちなぜかXiao Jingのものだけネット上で公開されていて、「motherland」「xiao jing」あたりで検索すると出てくる。それを観た人はこの演者の実際の経験だと思うんじゃないだろうか。
演者についていろいろ知りたいところだけれど、6人の演者のうちわかったのは2人だけ。
Azman役のAzman Hassanは真利子哲也監督の『Fun Fair』(『同じ星の下、それぞれの夜』)に出ているマレーシアの役者。映画出演は2005年以降で、大予算の商業映画にはほとんど出ずに華人系の監督の小規模予算の映画に多く出ている。エピソードはそのことをうまく説明する内容だったので本当に実話かと思った。
Verena役のVerena Tayは英語で舞台の脚本を書いたりする人。「Balik Kampung」シリーズなどの本も出していて、シンガポールのティオンバルにあるアクチュアリー書店でこの本を見つけて買おうとしたら、ちょうどその場にいて本にサインしてくれた。
それ以外の4人はよくわからなかった。事情通からXiao Jing(肖静?)は新芸舞団の関係者ではないかとの情報を得たけれどわからない。作家についてだけでなく演者についての情報もあるとありがたい。


「来年」
作家はミン・ウォン。少し前に品川の個展を見に行ったと思っていたが、2011年でけっこう前のことだったか。そのときは同じ作品の演者を入れ替えたり少しずつ違うリハーサルの映像を重ねたりして映像を通じて実験する作家だという印象があったけれど、この作品もそうだった。
もとになる映画があって、その映像に重ねたり差し挟んだりしてミン・ウォンの物語が入ってくる。もとになった映画の『去年マリエンバートで』(1961年)は、4つの物語をバラバラにして繋げて登場人物たちの記憶の違いを見せた実験的な映画らしい。そこにさらにミン・ウォンの物語が挟まれて、時制を変えた字幕が重ねられていく。目がチカチカするのを辛抱しながら観たけれどわかりにくい。読み解きのヒントがもう少しほしいと思った。


サンシャワー展についてはとりあえずここまで。森美術館は1回ざっと見ただけなので、東京に行く機会があれば時間をかけて観てみたい。

サンシャワー展(2)

手間暇かけて作ったものを手間暇かけて選んで並べたのだから、個別の作品にも展示全体にもそれぞれ意味が宿っているはずで、それを考えるのが展示会に行く楽しみだ。サンシャワー展では、多少の土地勘があるマレーシア、シンガポールインドネシア、そしてフィリピンぐらいまでは自分なりに意味を見いだせたと思えるものもあったけれど、さっぱりわからないものもあった。それ以外の地域の作品はほとんどお手上げで、一通り説明してもらってから自分なりに何を感じるか考えてみたいと思った。
以下は、国立新美術館会場のみ、マレーシア、シンガポールインドネシアを中心に、作品ごとに感じたことのメモ。いずれも作り手や選んだ人の意図と無関係に私が感じたことなので誤解のないよう。


「どうやら3つの国家の統治は簡単にはいかなそうだ」と「マフィリンド」
2つともパンクロック・スゥラップの作品。イー・イランと同じくボルネオ島サバ州を拠点に活動している。
「どうやら3つの国家の統治は簡単にはいかなそうだ」は、マレーシア、フィリピン、インドネシアをあわせたマフィリンドの地図に(なぜかインドシナも入っているが)、マレー・インドネシア語で宗教、天然資源、教育、安全保障に関する4つのスローガンが書かれている。それぞれスローガンは立派だけれど、実際に現場で起こっていることはさまざまで、その様子が図像で描かれている。
こういう作品では、スローガンがあることがわかればよくてその中身はあまり重要ではないという意見もあるだろうけれど、私はこういう作品では4つのスローガンがそれぞれどんな意味か説明がほしいと思う。(映画の挿入歌の歌詞の意味を知りたくなるタイプ。それを字幕にするかどうかは別の話。)
左の方にいる頭に羽をつけた衣装はボルネオの先住民っぽい。右の方で両手を広げているのはサバの先住民の舞踊にも見えるけれど、サバだと男がこの被り物をすることはないのでちょっと違うか。中央の上の方の大きな魚を捕まえようとしている2本の手は誰の手なんだろうか。
「マフィリンド」は指導者の肖像で、後光が差すように言葉が並べられている。マレーシア(マラヤ)、フィリピン、インドネシアの3つの国の頭文字をつなげたマフィリンドにちなんで、肖像の上に書かれた言葉の頭文字をつなげると別の単語が浮き上がる仕掛けになっている。それらは理念としては素晴らしいが、その理念が現場でどんな形になっていくかはさまざまだというのが肖像の左右に並ぶ言葉で示されている。
グループ名のPangrok Sulapは聞いた通りカタカナにするとパンロック・スラップ。pangrokの方はパンク+ロックという意味からパンクロックとするのはわかるけど、sulapをスラップでもスーラップでもなくスゥラップにしているのは誰のどのようなこだわりなのだろうか。


「遺骨の墓地のモニュメント」と「声なき声」
「遺骨の墓地のモニュメント」はジャワ華人のFXハルソノの作品。インドネシアで「第二次警察行動」と呼ばれる1948〜49年のオランダの軍事作戦に伴って犠牲になったジャワ華人の弔い。この軍事作戦のきっかけの1つはインドネシア共和国政府とインドネシア共産党の対立で、この前後の混乱の中で共産党側の指導者は射殺され、共和国政府側のスカルノやハッタは逮捕された。
この作品と向き合うように壁に沿って置かれているのが「声なき声」。9つの指文字のパネルで、並べるとDEMOKRASI(民主主義)になる。自由が制限されていて声を上げることができない(だから音声ではなく指文字で表現する)。
この2つはそれぞれ独立した作品だけど、一緒に選ばれて互いに向き合うように並べられていることにはどのような意味が込められているのか。軍事作戦で犠牲になった華人を弔うことと、声を上げることができないこと。この2つを組み合わせると、1965年の9・30事件の後に共産主義者という疑いをかけられてたくさんの華人が犠牲になり、その大量虐殺は公式に誤りだったと認められていないためにいまだに公に話すことがはばかられるという状況が思い出される。
学生向けの課題風に言うならば、「遺骨の墓地のモニュメント」には何人分の遺骨があるか数えてみよう、そして50万人とも100万人とも言われる9・30事件後の犠牲者について「遺骨の墓地のモニュメント」と同じものを作るとしたらどれだけの広さが必要か計算してみよう、という感じになるだろうか。
9・30事件後の大量虐殺では殺した側と殺された側(の関係者)が今も同じ社会にいるために語りにくい。でもオランダの軍事作戦で犠牲になった華人の話なら国内で角が立たない。それを「声なき声」と組み合わせることで他の事件で犠牲になった華人同胞の追悼の意味も込められている。
直接表現できないことを間接的に表現しているという見方で見直してみると、サンシャワー展のほかの作品にも、表向きはそう説明されていなくても中華や華人をテーマにした作品がいくつもあるし、直接表現していなくても日本との関わりをテーマにした作品もいくつもある。作品を選んで見せ方を工夫した人たちの思いが伝わってくる気がする。


「サイチョウと宣教師」と「ボルネオ」。
制作時期が違いながらもよく似た構図の2つの作品。作家のアグス・スワゲはジャワ出身のインドネシア在住で、描いているのはボルネオ。インドネシア側の言い方のカリマンタンではなくボルネオにしているのは、マレーシア側の言い方にしたということではなく、マレーシアやインドネシアという国ができる前を意識しているからだろうか。
イチョウは、デイン・サイード監督の映画『インターチェンジ』にも出てくるように、ボルネオの先住民の間で特別な意味を持つ鳥だ。神さまと言ったら言い過ぎだけど、神聖性に通じる鳥。「サイチョウと宣教師」と「ボルネオ」に出てくるのは頭がサイチョウで首から下が人間で、神(自然)と人間が混然一体となった存在。これをとりあえずサイチョウ人間と呼ぶことにしよう。
「サイチョウと宣教師」では、西洋人の宣教師がボルネオに来たことでサイチョウ人間の体の中が晒されている。科学(医学)によって体のパーツが1つ1つ分解されて仕組みが明らかにされることで、「神と人間は1つ」と唱えるサイチョウ人間は神聖性を失っていく。かわりに神聖性を引き受けるのは、頭に輪をつけて羽が生えた宣教師が紹介する新しい神さまなのだろう。
「ボルネオ」では、サイチョウ人間は体の中が晒されるのではなく、体の各部にボルネオのエスニック集団名が書かれている。それまで自他の区別を固定的に認識していなかったボルネオの人々が、西洋の博物学や人類学に基づいて言葉や衣装や習慣で分類され、それぞれエスニック集団として固定されて集団名が付けられていく。「ボルネオ(の人々)は1つ」と唱えるサイチョウ人間に対して、外から来た指は、お前たちはそれぞれ異なるエスニック集団だと教え、ボルネオの人々を分断していく。
西洋の科学は対象をバラバラに切り分けてパーツごとに理解することで対象を理解し管理しようとした。それによって神と人の一体性もボルネオという一体性も失われた。分けることでわかるようになる一方で、分けることで失われるものもある。


「プリブミ・プリブミ」
少数派の華人が多数派のプリブミ(原住民)に襲われた1998年のジャカルタ暴動の2か月後、オランダ生まれジョグジャカルタ在住のメラ・ヤルスマがジョグジャカルタの路上でパフォーマンスを行ったときの記録映像。中華料理の食材として知られるけれど非華人は食べる習慣がないカエルをメラたちがスケキヨ風の唐揚げにして非華人にもふるまい、プリブミ(現地生まれ)って何なのかと問いかける。
ある土地を訪れて、そこの多数派は食べる習慣がないけれど少数派や外来者が食べるものを路上で調理してふるまい、食べながら一緒に考えるという実践があることは他の場所でも聞いたことがある。この作品がそれらと一味違う印象を与えるのは、オランダ人の外貌を持つ作者が最後に「オランダ統治時代には華人も教育を受けられた」(なのに独立後に華人は差別されている)と言っていること。この一言でカエルの味がわからなくなった。

サンシャワー展(1)

少し前になるが、「サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」(サンシャワー展)を見てきた。
サンシャワーは天気雨のこと。ホー・ユーハン風にいくなら「太陽雨」と書いてレインドッグと読ませるだろうけど、サンシャワーと書くと明るい雰囲気が出る。
あるフィリピン研究者が、外国に暮らしてフィリピンを研究する研究者に対して、この灼熱の太陽と過剰な雨の下で暮らす経験を共有していない人にフィリピンについて語ってもらいたくないと発言して物議を醸したことがある。それは言い過ぎだと思うけれど、そう言いたくなる気持ちはわからないでもない。
あまりにも多様な東南アジアの国々を1つのコンセプトでまとめて未来志向のメッセージを出すとしたらどんなコンセプトがありうるのか。個々の現場の多様性を考えるとほとんど不可能な問いに思えてくる。でも、確かに太陽と雨は、東南アジアの国々がどれほど多様でも共通していて、しかも東南アジアらしさがよく表れている。しかもその2つをくっつけることで多義的な意味を与えるという発想は見事としか言いようがない。
サンシャワー展は、タイトル1つとっても企画した人たちの気合いが伝わってくる。時間も労力もかけてかなりまじめに東南アジア各地をまわって作品を選んだことがうかがえる。首都とメジャーな観光名所をつなぐだけでは得られない東南アジアの過去と現在と将来を見せようという意気込みが伝わってくる。


2つある会場のうち国立新美術館の方に入ると、最初に迎えてくれる作品が「偉人」だった。バティックの世界地図で、まわりが白く覆われていて、真ん中だけ地図が見える。真ん中に見えるのは東南アジアだけれど、西はアフリカの東海岸、北は日本、そして東はアメリカの西海岸まで、通常の東南アジアよりずっと広い範囲が見えている。「マレー世界」は、西はマダガスカルまで、北は琉球まで含める考え方があるが、それよりもずっと広い。
その真ん中に見えるボルネオはこの作品の作者イー・イランの出身地。ボルネオ(特に北ボルネオのサバ地方)は、東南アジアの国々が次々と植民地化されていったときに最後まで残った地域の1つだ。といっても、植民地支配に頑強に抵抗したからではなく、植民地支配しても儲かりそうになかったから。植民地と日本軍政を経て、いざ独立となったとき、すでに独立していた近隣のマラヤ、フィリピン、インドネシアのどれとくっつくかでまわりが揉めて、それならいっそのこと全部まとめてしまえと飛び出したアイデアが、3つの国の頭文字を繋げた「マフィリンド」だった。サバの人たちから見れば自分たちの頭の上を通り越してまわりが勝手に揉めていた話だ。結局サバはマラヤと一緒になってマレーシアになる道を選んだけれど、サバは今でもマラヤが4分の1、フィリピンが4分の1、インドネシアが4分の1、そして地元が4分の1ぐらいで混ざっているというのは公然の秘密。東南アジアでどの最寄りの首都からも等しく離れた場所にあるのがサバだと言ってもいい。そんなサバ発の作品を冒頭に掲げるとは、国ごとに集めて単純に繋げたのとは違う東南アジアの姿を見せるという意気込みが感じられる。


この作品のタイトルの原語はマレー語で「Orang Besar」(オラン・ブサール)。文字通り訳すと「大きな人」で、転じて「大物」「偉人」という意味になる。ボルネオを含む海域東南アジアには植民地化される前から土地ごとに有力者がいたけれど、欧米人が来て縄張り争いして支配領域を分割していくにつれて、土地ごとの有力者は秩序を乱す者として討伐の対象にされた。
土地ごとの有力者を指すとき、ボルネオではオラン・ブサールのほかにオラン・カヤという言い方もあった。文字通り訳すと「富める人」。(サンシャワー展の別の作品によればジャワ語だとスギハルティになるらしい。)でもこの作品には「オラン・ブサール」という題がつけられている。
植民地化以前に東南アジアを訪れた西洋人の探検家や研究者がしたことの1つが地元の人々の体のサイズを図ることだった。西洋人と現地人で体格が違うことは見ればわかるが、それを数字にして記録することでこの土地の人々は身体が小さいことを揺るぎない事実にした。やがて植民地支配に伴って東南アジアを訪れる西洋人が増えていった。下級官吏には若い人も多く、現地の人たちから見れば自分の子どもぐらいの年齢だったけれど、身体は自分たちよりはるかに大きかった。子どもでこの大きさならば大人になったらどれだけ大きくなるだろうか、そんな大男たちの国と争っても勝てるわけがない、ということで、身体の大きさが権力を象徴するという考え方が受け入れられていった。
「オラン・ブサール」というタイトルには、自分たちも「大物」なんだという思いが込められている。東南アジアよりもマレー世界よりもさらに広い範囲で自分たちを世界の中心に据えて、アメリカまで含めた範囲で自分たちをオラン・ブサールと呼んでいる。


国立新美術館会場の出口近くに金のネックレス探しという観客参加型の作品がある。
会場に敷き詰められた5トンの糸の中に金のネックレスが何本か埋まっていて、来場者は糸をかき分けてネックレスを探す。糸の山を少し掘ってみたけれど、糸が20センチぐらいの厚さに敷き詰められているし、糸どうしが絡まっているので、ちょっとやそっとのことでは見つかりそうにない。
糸を掘り返しているうちに、これはサンシャワー展を象徴している作品のようだと思えてくる。1つ1つの展示にはそれぞれ意味がある。作り手が込めた意味があり、選んだ人が見出した意味がある。そして見る人がそれぞれ感じる意味もある。
ただし、日ごろから東南アジアに馴染んでいないと(馴染んでいると思っていても)、作り手が込めた意味も選んだ人が見出した意味も十分に知らされないままで自分が感じる意味を見出すのはなかなか簡単ではない。けっこう本気で考えないと、何も意味を見つけることができないまま、表面だけなぞって無いものねだりを言ったりすることになる。
サンシャワー展で物足りなく感じたのは、作り手が込めた意味と選んだ人が見出した意味がそれぞれ何なのか、会場にほとんど示されていないことだ。作品のそばに解説が書かれているけれど、おそらくスペースの都合でたくさん書けないということもあって、漠然とした書き方になっているものも少なくない。それに、解説は選んだ人が書いたもので、作り手が込めた意味は直接語られない。解説の中で作り手が込めた意味が説明されることもあるけれど、それは選んだ人の言葉を介しているので作り手の実際の言葉ではない。
「戦争」と言ってもどの戦争のどの部分のことかとか、「支配者」と言っても誰のことかとか、肝心のところが漠然としていると、植民地支配や戦争で大変だったらしい、強権政治のもとで自由が制限されていて大変らしい、というような漠然とした感想しか生まず、それは作品を観る前から持っていた印象を強めることにしかならない。
念のために書いておくと、作品を観た人が全員うんうんうなってその意味を考えなければならないということでは全くなく、それぞれが好きに観ればいい。作り手の思いや企画者の思いなんか気にせずに自分の感覚に委ねたってもちろんいい。でも、解説の中にこの作品は皮肉や批判の意味が込められているとか書かれていると、どのような皮肉や批判の意味がどうやって表現されているのかと知りたくなってしまう観客もいる。これだけの熱意がこもった展示なので、そういう欲求にもこたえてほしいと思う。
選んだ人たちはきっと語りたい内容がたくさんあるはずで、会場の解説はスペースが限られているとか幅広い層のお客さんに適切に伝えるための方法などのためにしかたなく限られた解説だけにしているということもあるのだろう。会場に無料の音声ガイドがあったので借りてみたけれど、少なくとも日本語ガイドは、個別の作品について作品脇の解説を超える情報を与えてくれるものではなかった。残る期待はカタログで、注文したら8月末には届くということなので、そこに個別の作品の解説が詳しく書かれていることを期待しよう。

シンガポールのタレンタイム映画『Wonder Boy』

マレーシアとシンガポールで行われている芸能コンテストの「タレンタイム」は、もともと1949年にシンガポールでラジオ番組として始まり、1963年にテレビ放送が始まるとテレビ番組になった。タレンタイム全盛期の1950年代から1970年代にかけて、ラジオ/テレビのタレンタイムを頂点として、学校ごとや団体ごとにさまざまなタレンタイムが行われた。
1965年に独立したシンガポールでは、西洋の退廃した文化の象徴である長髪と麻薬とセットにされて、ロックは居場所をどんどん失っていった。聴衆たちも、聴くからには自分が知っている曲を聴きたいと思い、地元の音楽青年が自作の曲を弾こうとしたらすぐさま立ち去ってしまうほどだった。
そんなシンガポールで、自作の曲に自信を持って、誰もそれを聴いてくれないけれどいつの日か多くの人の前で自作の曲を演奏したいと思い続けていたディック・リー
シンガポールはもちろんのことアジアでも広く知られているミュージシャンのディック・リーが、高校に進学してから最初のレコードが出るあたりまでの様子を自伝的に描いた作品。ディック・リーを知っている人はもちろん必見の作品だけど、ディック・リーをあまり知らなくても70年代のシンガポールの社会や音楽の様子に関心がある人は観て損がない。
音楽なんてやめてしっかり勉強してまっとうな仕事につきなさいと叱る父。良家のお坊ちゃんのディック・リーにタバコを教えたりして一緒にタレンタイムに出場しようと誘うクラスメート。ディック・リーにオーディションに行くように勧めてくれたガールフレンド。そんな人たちとの出会いと別れの末にレコードデビューを果たす。
1人になって自暴自棄になっていたディック・リーを支えてくれたのは妹だった。そして、自作の曲に自信を持つように支えてくれたのは母だった。ヤスミン監督の『タレンタイム』で妹のマワールがメルーを支えたこと、そして自作の曲でタレンタイムの決勝に臨もうとして母に「ベストを尽くしなさい」と言われたハフィズが重なって見えてくる。
ラストシーンを見ると、ディック・リーが誰に一番観てもらいたくてこの映画を作ったのかが伝わってきて泣けてくる。それを踏まえてもう一度はじめから観てみると、何気ない場面のちょっとしたやり取りに込められた意味が見えてくる。
作品中でたくさんの曲が流れるけれど、ディック・リーの曲を知らなくても楽しめる。でも「フライドライス・パラダイス」は知っておくとさらに楽しめるかも。
タイトルのは「Wonder Boy」はディック・リーが高校のクラスメートに誘われてタレンタイムに出場したグループの名前だけど、実際にディック・リーが高校1年のときにクラスメートに誘われて参加したのはHarmonyというグループだったようだ。事実をもとにしつつも脚色したり名前を変えたりしているのだろうけれど、『ワンダーウーマン』の劇場公開と重なったのは偶然だろうか。
劇中でディック・リーを見出すVernon Corneliusは本名で出ている。1960年代のシンガポールで絶大な人気を誇った伝説のバンドThe Questsのメンバーで、1971年に解散してからレディフュージョンのDJをしていて、ディック・リーがデビューするきっかけを与えた人。
ディック・リーの父はプラナカン協会の会長さんだったはずだけど、劇中の父はあんまりプラナカン風という感じでもなかった。でも劇中のディック・リーの家ではみんな家の中でも靴を履いていて、一般の華人家庭とちょっと違う雰囲気は確かにあった。
まだ劇場公開はずなので、この週末はぜひシンガポールへ。