インドネシア映画『Turah』

インドネシアで劇場公開中のインドネシア映画『Turah』を観た。
『聖なる踊子』で助監督をつとめたウィスヌ(Wicaksono Wisnu Legowo)の長編初監督作。プロデューサーは『聖なる踊子』『黄金上秘聞』『チャドチャド 研修医のトホホ日記』などのイファ・イスファンシャー監督。
物語の舞台はウィスヌの出身地である中部ジャワの北海岸のテガル地方。テガル出身者やテガル方言に馴染んだ舞台俳優を集めて、ほぼ全編を通してセリフをジャワ語のテガル方言にした。インドネシア語で話すのは役人、警官、記者だけ。インドネシアの劇場での公開時はジャワ語のセリフにはすべてインドネシア語の字幕が付けられた。
キアロスタミ作品に強く影響を受けたウィスヌの最初の脚本はあまりに暗いからと受け入れられず、イファのアドバイスも受けて書き直していくうちに今回の脚本に落ち着いたのだとか。
インドネシアシンガポールの映画祭でも受賞しており、日本でもいずれ何らかの形で公開されるのではないかと思う。雰囲気は東京国際映画祭があっている気がする。


舞台は中部ジャワのテガル地方のティラン(Tirang)村。海岸近くの洲で、電気も水道もない。熱を出した子どもが手遅れで死ぬことも珍しくない。数世帯の村人が暮らしており、地主のダルソから仕事をもらって日々の生活を送っている。
ダルソは、いつもにこにこ顔で家々をまわっては村人たちの様子を見て、「困ったことがあれば遠慮しないで何でも言ってくれよ」と声をかけるけれど、心の中では村人のことを何とも思っていない絵に描いたような悪徳地主。その手足となって現場で物事をまわしていくのがこれまた絵に描いたような腰巾着のパケル。でも村人は、日々の暮らしが大変だとは思いながらも、仕事をまわしてあれこれ世話を焼いてくれるダルソに感謝している。
生きてはいけるけれど先が見えない状況を何とかしたいと思いながらも、ジャダグとトゥラは対照的な考え形をする。ろくに仕事もせず酒を飲んだくれて妻から半ば愛想を尽かされているジャダグは、働いている自分たちはいつまでも貧しいままなのに元手を出すだけで実際に働いていないダルソばかり儲けているのはおかしいと言い、村人の前でダルソ批判の演説をはじめる。自分にできる仕事をまじめに取り組んでいけばきっと問題は解決すると信じるトゥラは、対立は何も解決しないとジャダグを説得しようとする。
ジャダグの主張する内容がいかにも教条主義的で、これが植民地統治期の話だったら、トゥラのやり方では解決できない大きな悲劇が起きて、それをきっかけに人々がジャダグの考えでまとまって一致団結してダルソに対抗して、という筋書きが見えてきそうだが、舞台を現代に移すとそう簡単に物事は進まない。後半から結末にかけての展開をどう受け止めるのか、インドネシア人にもそうでない人にもいろいろと聞いてみたい。


劇中の表現に関連していくつか。
作品タイトル「Turah」は登場人物トゥラの名前と同じ。ジャワ語で「残りもの」という意味。どんな意味を込めたのかは監督に聞いてみたい。
ジャダグが酔ってダルソの悪口を話しているとき、左手をグーの形にして右手のパーでそれにふたをするような仕草をしていた。日本だと茶つぼの手遊びに出てくる仕草。マレーシアでは人前でやると白い目で見られる仕草で、マレーシアで茶つぼ茶々つぼをやると日本にはどうして子どもがそんな助平な手遊びをするのかと驚かれる。ジャダグはこの仕草をしているときにダルソがらみで下ネタを話しているので、インドネシア(ジャワ)でも同じような意味を持つのだろう。
ジャダグの部屋に置かれていて何度か映る看板にはインドネシア語で「みんなのために頑張ろう」のようなスローガンが書かれている。昔何かのキャンペーンで使われた看板の残りか。
お金がないという話になったときの「マルディヤのお金でも使うの?」というセリフは、テガル地方に昔マルディヤという富豪がいたという伝承があるためだとか。
最後にカメラが一瞬あらぬ方を向いて終わったように見えたのは、カメラを意識させることでこの作品を観ている自分を意識させるというような何かの演出?
ほぼ全編のセリフをジャワ語にしたことについて、監督は「グローバル化への抵抗の試み」と言っている。世界的に英語偏重、インドネシア国内ではさらにインドネシア語重視となっていく状況に対して地元語の方言を使うことで一石を投じようという意味だとはわかるけれど、インドネシア人以外の観客にとってこの作品のセリフがインドネシア語なのかジャワ語なのかはほとんど関係ない(その違いがわからなくても作品の理解や評価が低くなるわけではない)はず。そうだとすると、このような作品の制作・上映が可能になったのはむしろグローバル化が進んだからだとも言えるのではなかろうか。