災後7年目の物語『海を駆ける』

今週末から深田晃司監督の『海を駆ける』が公開される。2004年12月のスマトラ島沖地震津波インド洋津波)の最大の被災地で、30年続いていた内戦が津波被災を契機に終わったアチェ州の州都バンダ・アチェとその沖のウェー島(サバン)が舞台。
最大の謎は、混成アジア的なディーン・フジオカ演じる謎の男ラウの正体と、ラウが行く先々で巻き起こすことにどのような意味があるのかということ。それは映画を観た人がいろいろ考えて眠れなくなる問題で、私なりの解釈もあるけれど、そこれはまだここでは書かない。
かわりに、アチェ津波被災地につきあってきた経験から『海を駆ける』を観て思うことを書いておこう。ネタバレはないけど(『海を駆ける』は何を説明してもネタバレにならない作品だと思うけれど)、読んでも『海を駆ける』を理解する助けにはほとんどならない。


海を駆ける』の七不思議の1つは、なぜわざわざアチェで撮影したのかということ。物語の舞台がアチェなのはわかるけど、だからといってアチェで撮らなくてもいいはず。
アチェは、海のシルクロードの時代は東南アジアからインド洋に向けて開かれた玄関口だったけれど、植民地化と独立によって首都を中心とする政治経済の時代になるとインドネシアの西のはずれの土地という扱いになった。首都から遠くてどんな人が住んでいるのかよくわからないし、歴史的に反乱や紛争が多くて危険なイメージがあって、インドネシアの中の外国扱いされたりもするほど。バンダ・アチェにはずいぶん前から映画館もないし、全国レベルで流通するような映画を作る施設も環境も整っていない。
そんなアチェで映画を撮るなんて大変だろうから、インドネシアの別の場所で撮影して、それを「アチェの物語です」と見せてもよかったはず。映画ってそういうものだし。なのにわざわざ日本とインドネシアの大勢のスタッフがアチェ入りして本当にアチェで撮影した。これにはインドネシア人スタッフもアチェの人々もびっくりしたに違いない。


そこまでアチェで撮ることに思い入れがあるのなら、アチェのどんな姿を映すのかなと思って観てみると、『海を駆ける』には、アチェ津波被災地が舞台だと聞いてアチェ通の人が思い浮かべるだろう2つの風景が映っていない。イスラム教の象徴と津波被災の象徴で、どちらもアチェの観光プロモーションビデオに真っ先に出てきてもおかしくないランドマークだ。それが出ていないのが『海を駆ける』の七不思議の2つ目。
この2つが映っていないことは、現場での技術的な理由などもあったのだろうけど、そこをぐっと深読みするならば、『海を駆ける』が「災後7年の物語」というジャンルの作品であることと密接に関わっている。


「災後7年の物語」というジャンルについては説明が必要だろう。
アチェでは毎年、津波が起きた12月26日に追悼式典を行っている。津波から7年目となる2011年12月26日の追悼式典でアチェ州知事が行った演説が印象に残った。自分たちはかつて内戦で互いに殺し合った経験を持つ社会で、それがなければ津波が来ても犠牲者を減らすことができたはずだったこと。そして、2004年の津波で大きな犠牲を出した自分たちが津波災害について世界にしっかり発信していれば、その年に日本で起こった震災・津波でも被害を減らすことができたかもしれなかったこと。州知事はこの2つを挙げて、内戦と津波という2つの大きな災厄を経験した自分たちが世界に背負った責任を十分に果たしてこなかったことを悔いた。
これと同じ頃、アチェの人たちは自分から被災の話を語るようになり、人が集まるところでは即席の被災当時の写真展が開かれた。
私はこの様子を見て、アチェは復旧・復興に一区切りついて社会が新しい段階に向かおうとしていると感じた。
大きな災厄が起こると公的な復旧・復興が進められるけれど、いつまでも続けるわけにはいかず、一定の時間が経つと公的な復旧・復興には区切りがつけられる。復興住宅が建って木々が茂って、表面上は災厄があったことがほとんど見て取れないほどに復旧・復興が進むけれど、そこに住む人々の暮らしや個人の心の中で災厄への対応に区切りがついたわけではなく、一人ひとりが災厄の経験を抱きしめて暮らしている。それは災厄の発生直後からもそうなのだけれど、はじめのうちは公的な復旧・復興の部分が大きくて、個人の部分は外からあまり見えない。公的な復旧・復興が一区切りつくと、それまで見えていなかった部分が見やすくなって、人々が個人の思いを表明する様子がいろいろ見えてくる。
このように、社会全体で取り組む復旧・復興が一区切りついて、個人が災厄の経験を抱きしめて暮らしている様子が見えるようになった状況を「災後7年」と呼んでいる。
ただし7という数字に科学的な根拠はなくて、6年でも8年でもいいかもしれないし、社会や災厄によって違うかもしれない。でも、関東大震災の後で復興局が改組されたのも第二次世界大戦GHQが廃止されたのも7年目なので、7年というのは社会の違いを超えて共通する何かがあるのではないかという意見もある。


話を戻すと、『海を駆ける』は、アチェ津波被災地が舞台で、しかも全編アチェで撮影しているにもかかわらず、アチェのランドマーク的な2つのものが映っていない。
その1つは、見てすぐわかるような津波の爪痕、あるいはそれをそのまま残している津波遺構だ。『海を駆ける』では、政府による復興事業はすでに終わっているけれど、個別に話を聞くと津波で失った家族の影を今でも追ってしまう人もいる。そこで描かれているのは、物理的な復旧・復興は進んでいるけれど一人ひとりの心の整理はついていないという「災後7年の物語」にほかならない。
もう1つはイスラム社会の象徴の大モスクだ。津波が押し寄せてきたときに人々は大モスクによじ登って難を逃れたという。ところが現在のバンダ・アチェの大モスクは2011年と姿が大きく変わっており、これを映すと2011年のアチェにならない。『海を駆ける』に大モスクが映っていないのは、2017年のアチェで撮影しながらも、スクリーンには2011年のアチェを映そうとする意識が働いたからではないだろうか。


深田監督がアチェを始めて訪れた2011年は、ちょうど「災後7年目」にあたる。支援団体の撤退後の後片付けがされている一方で、アチェの人びとが思い思いに自分たちの物語を語り始めようとしはじめた時期で、その意味でちょっとした活気があった。
各国の赤十字赤新月社が撤退して、支援事業中に本部だった場所に赤十字赤新月社の活動の様子が展示されていた。小部屋に津波で犠牲になった遺体が身に着けていた身分証明書が壁に整然と並べられていたのが印象的だった。そして12月26日に人々が集まる集団埋葬地やモスクには津波被災の写真を貼った即席の写真展ができた。
深田監督はその雰囲気をうまく掴んで、それをスクリーンの中で再現しようという気持ちが働いたのではないだろうか。『海を駆ける』を観ると、登場人物の振る舞いや関係が2011年ごろのアチェを思い出させる。
その状況で現れたのがラウだとするとラウの正体についてもさらに考えが巡りそうだけれど、それはまた別の機会に。


アチェ津波被災から7年目の状況を捉えた『海を駆ける』は、東日本大震災から7年目の2018年に日本で劇場公開される。震災・津波そして原発災害から7年が過ぎ、制度面で復興に区切りをつけて別の方向に向かおうとする動きが出てくる中で、一人ひとりの問題が解消されないまま残っているという「災後7年目」の状況に改めて思いを巡らせ、それを社会全体の課題として私たちがどのように関わるべきかを考えさせる。


アチェ津波から7年目の様子をもう少し詳しく知りたい人には
京都大学学術出版会:被災地に寄り添う社会調査
の本を紹介しておこう。
専門書はちょっと敷居が高いという人にもお手頃な定価700円。カラー写真が豊
富なので、アチェに行ってみたいという人が旅行前に読むガイドとしてもお勧めできる。深田監督が2011年にアチェを訪れたときに遺体写真が掲示されていて驚いたという津波教育公園の説明もある。


アチェの被災・復興や、被災前の歴史についてより詳しく知りたい人は
京都大学学術出版会:災害復興で内戦を乗り越える
の本を紹介しよう。
津波に被災したアチェの人々はなぜ笑顔か」という問いに答えようとした専門
書で、津波犠牲者の弔いやアチェインドネシア)の死生観に関心がある人に特にお勧めしたい。小説版『海を駆ける』で公園に置かれた飛行機のレプリカの話や、深田監督が2011年に参加したアチェの国際会議のことも書かれている。