サンシャワー展(1)

少し前になるが、「サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」(サンシャワー展)を見てきた。
サンシャワーは天気雨のこと。ホー・ユーハン風にいくなら「太陽雨」と書いてレインドッグと読ませるだろうけど、サンシャワーと書くと明るい雰囲気が出る。
あるフィリピン研究者が、外国に暮らしてフィリピンを研究する研究者に対して、この灼熱の太陽と過剰な雨の下で暮らす経験を共有していない人にフィリピンについて語ってもらいたくないと発言して物議を醸したことがある。それは言い過ぎだと思うけれど、そう言いたくなる気持ちはわからないでもない。
あまりにも多様な東南アジアの国々を1つのコンセプトでまとめて未来志向のメッセージを出すとしたらどんなコンセプトがありうるのか。個々の現場の多様性を考えるとほとんど不可能な問いに思えてくる。でも、確かに太陽と雨は、東南アジアの国々がどれほど多様でも共通していて、しかも東南アジアらしさがよく表れている。しかもその2つをくっつけることで多義的な意味を与えるという発想は見事としか言いようがない。
サンシャワー展は、タイトル1つとっても企画した人たちの気合いが伝わってくる。時間も労力もかけてかなりまじめに東南アジア各地をまわって作品を選んだことがうかがえる。首都とメジャーな観光名所をつなぐだけでは得られない東南アジアの過去と現在と将来を見せようという意気込みが伝わってくる。


2つある会場のうち国立新美術館の方に入ると、最初に迎えてくれる作品が「偉人」だった。バティックの世界地図で、まわりが白く覆われていて、真ん中だけ地図が見える。真ん中に見えるのは東南アジアだけれど、西はアフリカの東海岸、北は日本、そして東はアメリカの西海岸まで、通常の東南アジアよりずっと広い範囲が見えている。「マレー世界」は、西はマダガスカルまで、北は琉球まで含める考え方があるが、それよりもずっと広い。
その真ん中に見えるボルネオはこの作品の作者イー・イランの出身地。ボルネオ(特に北ボルネオのサバ地方)は、東南アジアの国々が次々と植民地化されていったときに最後まで残った地域の1つだ。といっても、植民地支配に頑強に抵抗したからではなく、植民地支配しても儲かりそうになかったから。植民地と日本軍政を経て、いざ独立となったとき、すでに独立していた近隣のマラヤ、フィリピン、インドネシアのどれとくっつくかでまわりが揉めて、それならいっそのこと全部まとめてしまえと飛び出したアイデアが、3つの国の頭文字を繋げた「マフィリンド」だった。サバの人たちから見れば自分たちの頭の上を通り越してまわりが勝手に揉めていた話だ。結局サバはマラヤと一緒になってマレーシアになる道を選んだけれど、サバは今でもマラヤが4分の1、フィリピンが4分の1、インドネシアが4分の1、そして地元が4分の1ぐらいで混ざっているというのは公然の秘密。東南アジアでどの最寄りの首都からも等しく離れた場所にあるのがサバだと言ってもいい。そんなサバ発の作品を冒頭に掲げるとは、国ごとに集めて単純に繋げたのとは違う東南アジアの姿を見せるという意気込みが感じられる。


この作品のタイトルの原語はマレー語で「Orang Besar」(オラン・ブサール)。文字通り訳すと「大きな人」で、転じて「大物」「偉人」という意味になる。ボルネオを含む海域東南アジアには植民地化される前から土地ごとに有力者がいたけれど、欧米人が来て縄張り争いして支配領域を分割していくにつれて、土地ごとの有力者は秩序を乱す者として討伐の対象にされた。
土地ごとの有力者を指すとき、ボルネオではオラン・ブサールのほかにオラン・カヤという言い方もあった。文字通り訳すと「富める人」。(サンシャワー展の別の作品によればジャワ語だとスギハルティになるらしい。)でもこの作品には「オラン・ブサール」という題がつけられている。
植民地化以前に東南アジアを訪れた西洋人の探検家や研究者がしたことの1つが地元の人々の体のサイズを図ることだった。西洋人と現地人で体格が違うことは見ればわかるが、それを数字にして記録することでこの土地の人々は身体が小さいことを揺るぎない事実にした。やがて植民地支配に伴って東南アジアを訪れる西洋人が増えていった。下級官吏には若い人も多く、現地の人たちから見れば自分の子どもぐらいの年齢だったけれど、身体は自分たちよりはるかに大きかった。子どもでこの大きさならば大人になったらどれだけ大きくなるだろうか、そんな大男たちの国と争っても勝てるわけがない、ということで、身体の大きさが権力を象徴するという考え方が受け入れられていった。
「オラン・ブサール」というタイトルには、自分たちも「大物」なんだという思いが込められている。東南アジアよりもマレー世界よりもさらに広い範囲で自分たちを世界の中心に据えて、アメリカまで含めた範囲で自分たちをオラン・ブサールと呼んでいる。


国立新美術館会場の出口近くに金のネックレス探しという観客参加型の作品がある。
会場に敷き詰められた5トンの糸の中に金のネックレスが何本か埋まっていて、来場者は糸をかき分けてネックレスを探す。糸の山を少し掘ってみたけれど、糸が20センチぐらいの厚さに敷き詰められているし、糸どうしが絡まっているので、ちょっとやそっとのことでは見つかりそうにない。
糸を掘り返しているうちに、これはサンシャワー展を象徴している作品のようだと思えてくる。1つ1つの展示にはそれぞれ意味がある。作り手が込めた意味があり、選んだ人が見出した意味がある。そして見る人がそれぞれ感じる意味もある。
ただし、日ごろから東南アジアに馴染んでいないと(馴染んでいると思っていても)、作り手が込めた意味も選んだ人が見出した意味も十分に知らされないままで自分が感じる意味を見出すのはなかなか簡単ではない。けっこう本気で考えないと、何も意味を見つけることができないまま、表面だけなぞって無いものねだりを言ったりすることになる。
サンシャワー展で物足りなく感じたのは、作り手が込めた意味と選んだ人が見出した意味がそれぞれ何なのか、会場にほとんど示されていないことだ。作品のそばに解説が書かれているけれど、おそらくスペースの都合でたくさん書けないということもあって、漠然とした書き方になっているものも少なくない。それに、解説は選んだ人が書いたもので、作り手が込めた意味は直接語られない。解説の中で作り手が込めた意味が説明されることもあるけれど、それは選んだ人の言葉を介しているので作り手の実際の言葉ではない。
「戦争」と言ってもどの戦争のどの部分のことかとか、「支配者」と言っても誰のことかとか、肝心のところが漠然としていると、植民地支配や戦争で大変だったらしい、強権政治のもとで自由が制限されていて大変らしい、というような漠然とした感想しか生まず、それは作品を観る前から持っていた印象を強めることにしかならない。
念のために書いておくと、作品を観た人が全員うんうんうなってその意味を考えなければならないということでは全くなく、それぞれが好きに観ればいい。作り手の思いや企画者の思いなんか気にせずに自分の感覚に委ねたってもちろんいい。でも、解説の中にこの作品は皮肉や批判の意味が込められているとか書かれていると、どのような皮肉や批判の意味がどうやって表現されているのかと知りたくなってしまう観客もいる。これだけの熱意がこもった展示なので、そういう欲求にもこたえてほしいと思う。
選んだ人たちはきっと語りたい内容がたくさんあるはずで、会場の解説はスペースが限られているとか幅広い層のお客さんに適切に伝えるための方法などのためにしかたなく限られた解説だけにしているということもあるのだろう。会場に無料の音声ガイドがあったので借りてみたけれど、少なくとも日本語ガイドは、個別の作品について作品脇の解説を超える情報を与えてくれるものではなかった。残る期待はカタログで、注文したら8月末には届くということなので、そこに個別の作品の解説が詳しく書かれていることを期待しよう。