マレーシア映画『ラ・ルナ』

東京国際映画祭でマレーシア映画『ラ・ルナ』を観た。感想を尋ねられたけれど、その場では簡潔にうまく答えられない気がした。映画の本筋と関係ない感想ばかりになってしまって映画を愉しんだ人の気持ちに水を差すといけないと思ったのと、感想を一通り説明しようとすると話が長くなりそうだったので立ち話では中途半端になりそうだと思ったから。と思っていたら、何人かの人から、書いたものを読みたいと言っていただいたので、久しぶりに書いてみることにした。

 

『ラ・ルナ』についての事前情報はあまり入っていなかった。シャリファ・アマニが宗教的に保守的な田舎に女性用の下着を売りに行く話で、『バタフライ』の主演のシュマイラ・サリヒンも出ているというぐらい。

『バタフライ』は2021年のマレーシア映画で、シュマイラはマレー人のイスラム教徒なのに生まれ変わりはあるのかとか死後の世界についていろいろ考えてしまうというのと、同級生でインド系のヒンドゥ教徒の男の子と仲良くなるという話。原題はマレー語で「Mentega Terbang」。直訳すると「バターが飛ぶ」で、これだと意味がわからないけれど、「バター・フライ」つまりバタフライという言葉遊び。いろいろな意味での変化の物語という意味が重ねられている。

まるでヤスミン世界のようだと評判になった一方で、ヤスミンに向けられたのと同じように、民族や宗教への冒涜だという批判も出た。上映会に抗議運動が起こったりしたため、関係者がオンラインで配信しては抗議を受けて配信を取りやめ、しばらくして別のサイトで配信するということを繰り返している。

シュマイラも批判の対象になったけれど、『ラ・ルナ』ではシュマイラの父親役のソリヒン署長にシュマイラの実の父親の名前のソリヒンをつけていたりして、映画コミュニティとしてシュマイラを温かく迎えようという気持ちが感じられる。アマニの再来かとも言われるシュマイラをアマニと共演させて、今度はアマニがシュマイラを育てていくのかなとも思わせる。

そしてイディル。イディルとアマニはマレーシアの演劇では「欧米帰り」の役を演じることが多い役者で、役柄上マレー人社会の因習を批判することが多くて、そのため批判を浴びたりもする。そんなメンバーが集まって、しかも宗教的に保守的な田舎を舞台にした映画なので、マレーシアで公開されたらどうなるか、ということで話題になっていた。

 

さて、その内容。バス停で何人も待っていてもいつになってもバスが来ない(映画の最後にもう一度同じバス停が出てくるけれどまだバスが来ていない)のは『細い目』を思い出させるなあ、でもユーハンの『ミン』にもあるからたまたまかな、とか思っていると、そういえば冒頭の礼拝所のスピーカーで礼拝を呼びかける音の感じは『グブラ』みたいだなという気もする。

ヤジドがいたずら書きをして怒られているときにソファーに座っている場面は『ムクシン』を思い出すし(お母さんに耳を引っ張られるのも『ムクシン』にあった)、アズラがデートに行って気が気でないサリヒン署長にかかってきた電話のハニーの話し方は『ムアラフ』を思わせる。そもそもハニーという名前からしてムアラフでアマニが演じたロハニだし。

 

こうやっていちいちヤスミン作品と重ねて観てしまうと本筋を見失ってしまうと気を引き締めようとしたけれど、2つの場面で撃沈した。

ラ・ルナのお店の壁に飾ってある額。色鮮やかな女性の絵の方じゃなくて、両脇の壁に、互いに向き合うようにして鳳凰のような鳥の絵が飾られている。『タレンタイム』でマヘシュの家に飾られていたのと同じもの。マヘシュのお母さんが家でソファーに座っている場面で後ろの壁に掛かっている。

もう1つは、ヤジド(アズラのボーイフレンド)の家の壁に飾ってある大きな扇子。ヤジドのお母さんが赤い下着をもらったためにヤジドのお父さんが狼のように盛ってしまうけれど、部屋を閉め出されたりする場面で、その背景の壁に大きな扇子の飾りが掛けられている。ヤジドのお父さんと一緒に3回ぐらい映ったので嫌でも目に入ってくる。

ヤジドのお父さんを演じたのはナムロン。最近は悪徳代議士や悪徳警官の役が多いけれど、『グブラ』では礼拝所の管理人を演じていた。礼拝所の鍵を妻と一緒に探している場面で映っていたのが壁の大きな扇子。色違いだけど、ナムロンは『ラ・ルナ』の世界でも家に同じ扇子を飾っている。

この2つは明らかにヤスミン作品を意識して持ってきたもの。ちなみにライハン監督に尋ねたら、自分が指示したわけではないけれど、『ラ・ルナ』の美術担当(名前がミンなのはたまたま)の師匠はヤスミンのもとで美術担当をしていた人なので、そのせいだろうとのことだった。やっぱりつながってた。

そうなると、ほかにも家の前の階段に座って話している場面とかもあれこれ思い浮かぶし、セリフも、ハニーがアズラたちに言った「Jangan nakal-nakal」(おいたはだめよ)は『タレンタイム』の車いすの謎の男が言ったセリフだなとか、いろいろ気になるけれど、そこに拘り過ぎてもいいことはないので、あとは心の中に留めておくことにする。

 

さて。下着は内側に身に着けるもの。他人に見せる必要はなくて、自分が楽しめばよいもの。その上で、内面の楽しみの新作を手に入れたり気心が知れている人たちと情報共有したりする場もあった方がよくて、その場を提供しているのがラ・ルナというお店。

考えごとは頭の内側で行うこと。何を考えているかを他人に伝える必要はないし、何をどう考えるかを他人に強制されるものでもない。自分の頭の中でなら何を考えてもいい。その上で、考えごとの新作を手に入れたり、気心が知れている人たちと情報共有したりする場もあった方がよくて、それを提供してくれる場の1つが映画。(念のために書いておくと、映画館じゃなくて映画。それから、映画が唯一の場ということではない。)

『ラ・ルナ』は下着の話をしながら映画の話もしている。(アズラがデートに行こうとしたのも食事と映画だったし、村人たちが集まる機会も野外上映会だったし。)

 

となると、『ラ・ルナ』は、保守的な村に下着を売りに来た女性が自分の権勢を守りたい男たちに攻撃され、拠り所を失うけれど、村人たちの助けを借りて再起に向かう物語であるとともに、マレーシアに新しい映画の潮流を持ってきたヤスミン監督が批判勢力から激しく攻撃されたことが重なって見えてしまう。以下はその観点からの私の妄想。いつものことだけれど、映画と現実が地続きになっている。

 

ハニーが村に来たのはおじいさんが亡くなって空き家になってから10、11年たったとき。「10、11年」というのは半端な感じがする。ライハン監督は、5年前にアマニに会って、それからしばらくしてこの映画を作るという話をしたという。この映画公開は2023年で、5年前は2018年なので、この映画を作る話をしたのは2019年とか2020年のころだったということになる。ヤスミンが2009年に亡くなって10年か11年ぐらいした頃にアマニがスクリーンに戻ってきたということ。もちろんアマニはこの間に映画にいくつか出演しているけれど、アマニの物語として大々的に迎えたという気持ちの表れ、かな。

 

ハニーが村に来てラ・ルナを開いたということは、アマニが映画制作に関わるために映画コミュニティに戻ってきたということ。それを歓迎する人がいる一方で、伝統的な考え方を乱すものとして排除しようとする人もいる。ちょうどヤスミンが登場したときに「文化を汚すもの」と言われたように。

そして、アマニはヤスミンのそばにいて一連の出来事をずっと目撃してきたし、ときにはアマニも批判の対象になってきた。ヤスミンが亡くなったあともアマニへの批判がなくなったわけではなくて、SNSひどい言葉を投げつけられたりもしてきた。それでもアマニはヤスミンが示したストーリーテラーの役割を引き継がなければと自分に課して、私は役者だから人前では自分の役割を演じ切ることができるから大丈夫だと言って批判の矢面に立ち続けてきたけれど、舞台裏を知っている人には満身創痍に見えることもある。ヤスミンの継承者として長編監督作品を観せてほしいと期待されていることはよくわかっているけれど、他の人の脚本を演じるだけにしてもいいのかなと思ったこともなかったわけではない。

 

ラ・ルナは、まわりに誰もいない田んぼの真ん中に一軒家を構えて、夜に村人以外が通りかかることはまずないので広告効果はほとんどないにもかかわらず、高い電気代を払ってでも「ラ・ルナ」という看板に明かりを灯し続ける。

空を見れば月が出ているのと同じ。月は、自分から光り輝いくわけではないけれど、他人からの光を受けて輝くことで世の中をそっと照らして、あなたは一人ではないと思わせてくれる。遠くにいて会えない人がいても、空を見ると月が浮かんでいて、あの人もきっと同じ月を見ているだと思うと、自分は一人じゃないと思える。

ラ・ルナを作ったハニーはヤムに「あなたは一人じゃない」と声をかけてヤムを招き入れた。そしてラ・ルナの光を受けたヤムは自分が他人を照らすようになり、ハニーに「あなたは一人じゃない」と声をかける。

 

でもハニーがしていることが気に入らないと思う人もいて、そのためラ・ルナは焼けてしまう。店が燃えて崩れ落ちる場面で、それを見て恐れ戸惑っている村人たちの顔が映るなかで、特にハニーが絶望的な顔をしている。自分が作った店を否定されたということだし、金銭的な損失も大きいということもあるだろうけれど、映画と現実を混ぜるならば、月を象徴するラ・ルナはストーリーテリングの拠点すなわちヤスミンで、それが失われたというアマニの絶望が表れていた。10、11年前にヤスミンが亡くなったときにアマニが感じた喪失と絶望がどのようなものだったかをハニーの顔から想像される。

 

ヤスミンの物語を再建するために頑張ってみたけれど、反対する人もいて、拠点が打ち砕かれてしまった。だからこの道を進むのは諦めて、もう都会に帰ろう。そう思ったハニーが見たのは、村の人たちがラ・ルナを再建しようとしている姿だった。サリヒン署長は「板を1枚ずつ再建していけばいい」とハニーに声をかける。

映画の『ラ・ルナ』がヤスミン作品の場面やセリフを1つ1つ持ち寄るようにして作られているのはそれと重なる。ヤスミンが作ったものをそのまま再建するのではなくて、ヤスミンが遺したものを持ち寄って新しいものを作ろうという人たちの思いが感じられる。映画コミュニティにそう思っている人たちがこんなにたくさんいるのだから、その旗振り役はぜひアマニにやってもらいたい。でもサリヒン署長は「やってほしい」とも「やるべきだ」とも言わず、どうする?とハニーに問いかける。

その思いを受け止めてハニーは村に残り、ラ・ルナの看板の明かりが灯る。ストーリーテラーの明かりはきっとまた灯るという思いを込めて。

 

あとは個別の感想。

 

ハニーとサリヒンがいい感じの関係になっていて、二人の関係がどうなるのかも興味があった。マレーシアの映画では、相手をサヤンと呼ぶようになるのが関係がぐっと近くなったサイン。でもハニーとサリヒンは最後まで相手をサヤンと呼ばない。サリヒンは「Cik Puan Hanie」(英語風に言うとミス・ハニー)と呼ぶし、ハニーはサリヒンを英語で「officer」(署長さん)と呼ぶ。人称代名詞で呼ぶときも、お互いに相手のことをちょっと他人行儀のawakと呼び続ける。

(でもサリヒンはハニーのことを「ハニー」と呼んでるから、間接的に「サヤン」と呼んでいることになっているんだけどね。)

 

村長が逮捕された後、村の委員会の会議風景が一瞬映る。村長がいたときはメンバーは全員男性だったけれど、村長逮捕の後はサリヒン署長が議長のような感じで、メンバーには女性も入っていた。

 

村の家や店が高床式なので、家を訪ねたときに家に上げてもらわないと視線が上下になっている。ハニーがヤムの家に行ったときにはヤムの夫は家の中からハニーを見下ろしている。村長がラ・ルナを訪れたときには、ハニーは店から村長を見下ろして話している。

 

舞台の村はどこにあるのか。

村の名前はブラス・バサー村。マレー語でブラスは「米」、バサーは「濡れる」なので、直訳すると「濡れた米」になる。でもブラスは英語のブラジャーと同じなので、ブラス・バサーは「濡れたブラジャー」だというのはマレーシアやシンガポールの男の子たちがよく言っていたジョーク。監督もそういうジョークの意味も込めて村の名前をつけたと話していた。

それはいいとして、ブラス・バサー村はどこにあるのか。実際の地名としてはシンガポールにあるけれど、物語上はマレーシアという設定。ただし特定の州だとわかるようにすると、その州を侮辱しているとかいういらない批判を招くので、わざと場所がわからないようにしているのだろう。そのことを理解した上で、あえて場所はどこかを考えてみる。

村長の事務所の電話番号らしきものの市外局番は03だったのでクアラルンプールかとも思うけれど、ハニーが「クアラルンプールに戻る」と言っていたので違うかも。

車やオートバイのナンバープレートは場所を知る手掛かりになるけれど、この映画ではナンバープレートがうまく隠してある。ただ1つ見えたのはヤムが仕事に使っている車で、ナンバーはJAW2582なのでジョホール州の登録。実際には撮影がジョホールだったようなのでそこで借りたのだろう。物語的には、ここがジョホール州でないくてヤムがジョホール州から車でこの村に来たとは考えにくいので、どうしてもあの村をどこかの州に当てはめろと言われたらジョホール州に1票。

車と言えば、ハニーが運転している黄色い車のナンバープレートはGIMで、マレーシアに昔からある番号ではない。最近マレーシアではGナンバーを売るようになったという話を聞いたことがあるのでそれなのかもしれない。

 

アズラが家で詠んでいたコーランの章句は第114章の人々(アン・ナース)から。こっそりと忍び込んで人間の胸にささやくものの悪。それは精霊でも人間でも。

 

野外上映会で上映された映画は『Banting』。ライハン監督の第一作。