マレーシア映画ウィーク

4月11日から六本木シネマートでマレーシア映画ウィークが行われる。マレーシア地域研究者として、映画を通じてマレーシア社会の今を紹介するとしたらどのようになるかという立場から企画の一部に加わった。地域研究と映画業界のコラボで、異業種の噛み合わせがうまくいっておもしろいものができたか、それとも噛み合わせが悪くて寄せ集めに終わったかはご覧いただいた方々にご判断いただくとして、企画意図といくつかの作品を紹介しておこう。ということで、以下は私個人の思い入れというか思い込みであって、マレーシア映画ウィークの公式見解ということではない。


全体のテーマは、多言語社会でメッセージを伝えること/伝わること。マレーシア映画といえばヤスミン・アフマド監督がとても有名なのでまずヤスミン作品を例に取ると、登場人物が多民族で多言語のセリフでよく知られている。ヤスミン監督の最初の長編映画『細い目』では、中国語(華語)で詩を書くというジェイソンに対して、オーキッドが「あなたが書いた詩を翻訳して、でもロマンチックさは失わせないで」とお願いする場面がある。ジェイソンはオーキッドに手紙を書き続けたけれど、そのメッセージが届くのは続編の『グブラ』でジェイソンとオーキッドが遠く離れた後のことだった。


続く『ムクシン』では、ムクシンは凧にメッセージを書いてオーキッドに伝えようとした。ホー・ユーハンの『RAINDOGS』でもそうだったように、凧には異なる2つの世界をつなぐ媒体という意味が持たせられている。『タレンタイム』では、登場人物は言葉を使わずに思いを伝えようとする。言葉は溢れていてもメッセージがうまく伝わらず、手紙や凧を媒介にして思いを伝えようとする。


メッセージが伝わる/伝わらないというのは多言語だけの話ではない。『グブラ』と『ムアラフ』は異なる宗教の間でメッセージが伝わるかという話でもある。


ヤスミン作品を離れると、『黒夜行路』は、メインの話は黒社会ものだけれど、メッセージが伝わる/伝わらないという観点から見ると、スン(ピート・テオ)の恋人ピン(チュア・ティエンシ)が発していた「家を作りたい」というメッセージをスンは受け取れず、違った家を作ろうとしてしまったけれど、スンの弟分のオーキア(サニー・パン)にはそのメッセージが受け取れたという話。オーキアがメッセージを受け取れたのはあるものが媒介になっていることに気づいたからだけれど、スンはそれに気づかなかった。でも、物語の最後では、別のものを媒介にしてスンとオーキアは言葉を交わさずにメッセージを伝え合っている。インドネシアの『ラブリーマン』に通じる「男のロマン」の世界。


『NOVA』は、ヤスミン監督以前を含めたマレーシアの映画人からのメッセージを受け継いで、ヤスミンが牽引した新しい潮流を踏まえて、そこからさらに新しいマレーシア映画を作っていこうとする力強い宣言だ。そんな事情と無関係に物語を楽しみたい観客にも楽しめる内容になっているけれど、すでに亡くなってしまった人を含めたマレーシアの映画人たちに向けたメッセージも込められていて、その意味では目の前にいない人にメッセージを伝えようとするという話でもある。ヤスミンやホー・ユーハンなどの新潮流映画では、別の世界に行ってしまった人にメッセージを伝えるとき使われたアイテムは凧だった。『NOVA』がUFOを出してきたのはおそらく凧の変形で、もっとたくさんの人たちにメッセージを伝えたいという思いが強くてそうなったのかなと思う。


新潮流で花開いたホー・ユーハンやタン・チュイムイから少し後に出てきたエドモンド・ヨウとウー・ミンジンは、目の前にいるのにメッセージを受け取ろうとしない相手にどうやってメッセージを伝えることができるのかを考えて、作品の中に現実の社会問題を織り込む方法をとっている。ウー・ミンジンの「海辺の物語」シリーズの『盗人の第二の人生』では社会問題の部分は少し後退させているような印象を受けるけれど、エドモンド・ヨウの『破裂するドリアンの河の記憶』は現実の社会問題をかなりはっきりと示している。


でも、「社会問題を扱ってる」という程度のメッセージしか伝わらないのかもしれないなと思ってちょっとさびしく思うのが、『破裂するドリアンの河の記憶』の紹介で、マレーシアにレアアースの「採掘工場」が作られたと書いている人が多いこと。オリジナルの紹介には「採掘」という言葉はないので、たぶんどこかの時点で日本語でそう書かれたものが広がっていったんだろうと思う。実際にマレーシアで生じているのは、オーストラリアで採掘したレアアースをマレーシアに運んで精製して、それを日本などの第三国に売るということで、なぜ精製工場をマレーシアに置くのかが問われている。しかも首都クアラルンプールから離れた東海岸の沿岸部に工場を作ったので、万一何かあっても首都は大丈夫で、汚染物質が出たら海に流れていく。このあたりでウー・ミンジンの「海辺の物語」シリーズとつながっている。(ついでに書いておくと、ウー・ミンジンの「海辺の物語」シリーズでは何かがいつも海からやってきて、それが陸に上がったところの物語が描かれるけれど、その海辺の向こう側で何が起こっているのかを描いたのが今回の『盗人の第二の人生』かな。)


どちらもマレーシアの社会問題を扱っていて、しかもかなり敏感な問題を扱っているけれど、『盗人の第二の人生』と『破裂するドリアンの河の記憶』のうちマレーシアでの上映が心配なのは『盗人の第二の人生』の方。社会問題を扱っている部分とは別の部分で、男どうしの濃厚なラブシーンが出てきて、しかもこの顔とこの顔がっていうのがなんともなんだけど、まあ顔の好みは置いておくとして、シャリファ・アマニの短編第三作『イヴ』が敬虔なムスリム女性の同性愛を描いたとされてマレーシアでは一切公開されずにお蔵入りしてしまったこととあわせて考えると、『盗人の第二の人生』がマレーシア社会からどんな反応を受けるのかがとても気になる。まあなんというか、最近のマレーシアの監督たちを見ていると、いろんな意味でチャレンジャーだなと思う。


マレーシア映画ウィークに話を戻そう。私たちは、言葉があふれている状況にいながらも思いがうまく伝えられずにおり、思いの伝わらなさに戸惑い苛立ちながらも、言葉とは違うところで思いやメッセージが伝わったりもする。グローバル化が進んで、互いに言葉も考え方も違う人たちが出会う機会がますます増えていく中で、どうやって言葉や思いを通じさせることができるのかが重要なテーマになっている。そのためには外国語が話せるようになるというのが昔からある基礎的な解決方法だし、今風に言うなら自動翻訳ツールを開発するという解決方法もあるかもしれない。言葉は大切だ。でも、その上で、しぐさや表情なども含めて、言葉ではない部分でも思いやメッセージを伝えることができるし、思いやメッセージを読み取ろうとすることができる、あるいは、隠そうとしても伝わってしまう。


その読み解き方を身につけるにはいろいろな方法があるだろうが、楽しみながら体験できるという点では映画というメディアは重要な役割を果たすと思う。それに、劇場派の人からはあまり支持が得られないかもしれないけれど、繰り返し見られるという意味ではDVDや個人の携帯端末で映画を見るというのも重要だと思う。


映画の際立った特徴は多声的であることで、互いに異なるメッセージを含む情報が同時にスクリーンを通して提示されている。最低限の物語の筋があり、そこにセリフを重ねたり、ナレーションを入れたり、挿入歌を入れたり、言葉ではなくても画面の一部に焦点を当てたり、音楽を入れたり、いろいろな「声」を重ねていくことで物語の幅が広がっていく。でも、観客はそれらを全部受け止めているわけではない。自分が聞きたい「声」を選んでいくことで、自分なりの物語を見ることになる。


多言語状況があることと、それにもかかわらずメッセージが伝わらないこと、この2つが同じスクリーンの中でうまく表現できるメディアという意味で、映画の特徴が最大に発揮されるのはもしかしたらマレーシアを舞台にしたときなのかもしれない。映画の中で登場人物どうしで言葉が通じていないことを表すにはどうすればよいかを考えて、セリフの言語別に色分けしてはどうかと思い至った。


まあ、これは映画業界の常識に疎い地域研究者の私の発想で、それが公開上映なりDVD化なり実現の方向に向かうとなればいろいろ考えなければならないことも出てくるのだろうけれど、でも、ヤスミン作品をDVD化して多くの人に見てもらいたいという前からの希望には少し近づいた気がする。


そんなことを考えて、マレーシア映画ウィークではいくつか企画を担当させていただいている。解説が書けたところから紹介するので、登壇ゲスト情報とあわせてご覧を。
色で見分ける多様な言語~多色字幕版『細い目』(2015年4月)
東京シネアドボ「表現のタブーに挑戦し続けるマレーシア映画」(2015年4月)