映画「珈琲哲學」

マニラのワールドプレミア映画祭でインドネシア映画の「フィロソフィ・コピ」を観た。タイトルは「コーヒーの哲学」かな。

とてもよかったのでメモしておきたいけれど、これだけ出来がよいときっと日本でも上映される機会があるだろうから、物語の核心部分はちょっとぼかして、自分だけわかるメモとして書いておく。


まずはあらすじ。
外国留学から帰たジョディは、亡くなった父親の借金を返すためにビジネスをはじめる。パートナーのベンは、12歳のときに家を出て学費や生活費をジョディに助けてもらってきた仲だが、ぶっきらぼう。コーヒーのことをまったく知らないジョディと、コーヒーだったらインドネシアで俺が一番だと自負するベンの二人が、ジャカルタに「フィロソフィ・コピ」を開店する。その哲学は「客にはうまいコーヒーしか出さない」。開店して3ヶ月の売り上げは悪く、ジョディは「店にwifiを入れよう」「昼食時にも営業しよう」と提案するが、ベンは「うまいコーヒーだけ出せばいい」「ヨーロッパでは昼食時にカフェは閉めてる」と聞こうとせず、採算を考えず高いコーヒー豆ばかり仕入れようとする。ある日、ビジネスマンが店を訪れ、「とても大きな案件の入札がある。担当者は大のコーヒー好きらしい。うまいコーヒーを出して入札が通ったら謝礼を1億ルピア出そう」と持ちかける。ベンは「謝礼は10億ルピアにしてくれ、ただし負けたらこっちが1億ルピア払う」と言い、交渉成立。負けたらどうするんだよと震えるジョディ。
コーヒー全書を買ってきて、書いてある通りの手順で自信作をつくり、「パーフェクト」と名づけるベン。その全書の著者の娘で、10年前に出された全書の内容を書き直したいと世界中をまわっていたフランス人エルが店に取材に着たのでパーフェクトを出すと、「悪くない。でも先々週飲んだティウスには負ける」と言われる。ジョディとベンはエルの案内でセノ夫妻のコーヒー農園を訪れ、ティウスの秘密を知るとともに、自分たちのそれぞれの父親との関係を考え直していく。ベンたちはティウスの豆の力を借りてビジネスマンに臨むが、それぞれの父親と向き合う本当のドラマはその後に始まる。


インドネシア映画でこういう話をするようになったんだなと面白かったのが父親との関係の描き方。スハルト体制後のインドネシア映画の父親像っていうのは面白いテーマの1つで、ここでも何回か書いたかもしれないけど、その新しい段階かな。
登場人物の誰もがそれぞれ違った形で父親との関係に問題を抱えているんだけど、自分の仕事を進めていくことでかつての父親を受け入れ、和解する。ジョディは「父を嫌ってるわけじゃないけど、何でもこうすればいいってお膳立てしてくれて、それにしたがっている限りうまくいくけど、自分で考えて決めるという自由がなかった。父は死んだけど借金を残していて、そのために今こうして働かなきゃいけないっていうことは、まだ父の影響のもとで暮らしているってことだ」とか言うけど、これってスハルトのことだよね。それに対してエルが「前に父が言ってた。私がしていることの意味は今はわからないかもしれないけれど、いつかきっとお前にもわかるときが来るって」と言って、この話はそれで途切れる。スハルトが考えていたことがいつかわかるときがくる(というか、わかるときがきた)ということ?

それぞれ仕事をしていく過程で、かつて父親が言ったことややったことの意味がわかって、その意味で父親のことを理解して受け止める。一番わかりやすくてドラマになっているのはベンと父親の和解で、これが中盤以降の話の中心。ジョディとエルの話はメインじゃないのであっさり描かれてるだけだけど、でも二人ともそれぞれ仕事を通じて亡き父親と和解してる。
しかも、父親の仕事を発展させるためにとった手段の肝心の部分が、いずれも「自分が移動して現場をまわること」なのがとても興味深い。エルは世界中をまわってコーヒーの本を書いた。ジョディは父から受け継いだ店をどう発展させるかについてもそう。冒頭でお客を増やすためにカフェにwifiを置くか置かないかでジョディとベンが揉めて、後にベンが「田舎はいいぞ、渋滞がなくて。wifiもないけどな」と言ったことにも対応してる。

父親のことばかり書いたけど、子を思う母親も出てきて、それぞれ子を思う気持ちがどういう行動に結びついたかとかいう部分が、詳しくは書かないけどとても泣かせる話になっている。


もう1つ興味深かったのがインドネシアの多様性の描かれ方。中華、アチェキリスト教徒が出てくるんだけど、アチェだけはセリフで1回「アチェ」って言ったけど、それ以外は言葉では示されない。
ジョディが冒頭の会話で相手の女性を「チ」って呼んでるのは、その人の名前じゃなくて華人女性だから? ということは彼も中華系? そういえば、ジョディは「畜生」とか「この野郎」っていうときに何回か「チ**イ」って言ってて、これってマレーシアではよく聞く中華系の罵倒語でインドネシアではあまり聞いたことなかったけどインドネシアでも言うのかと思ったんだけど、これも中華系だからっていうこと?
アチェは、ベンがコーヒー豆を選ぶときにアチェのガヨコーヒーをよく選んでて、ちょっと高めだけど有機でよいコーヒー豆として何度か登場する。でもそれじゃなくて、中盤で物語の鍵を握る人物として隠れキャラクターみたいなアチェ人が登場する。
キリスト教徒は、ベンが終盤に田舎に帰って墓参りしたときに墓石に十字架がついていてる。ベンの父親もベンもキリスト教徒?
でも、華人アチェキリスト教徒も、それぞれ別のものに置き換えても話が成り立つようになっている。それぞれの要素がドラマの原因となるわけではないので、ちょっと気を抜くと気づかないまま物語が過ぎていきかねず、それでも物語の筋を追う上では問題がない。これは、華人アチェキリスト教も多様性の1つにすぎなくて事件の種になるとは限らないということなんだろうな。ついでに書くと、エルはジャカルタ弁まる出しのフランス人で、インドネシア国籍じゃないんだけど、でもインドネシアの多様性を示す存在になってる。

「Sayang Disayang」もアチェ人が出てきたけど、この映画祭はアチェに何か思い入れがあるのか、それとも偶然か。
この映画祭のフィリピン映画についてはまた機会があれば。


追記.2016年の東京国際映画祭で『珈琲哲學 恋と人生の味わい方(仮題)』の邦題で上映されるそうなので記事のタイトルは「珈琲哲學」に修正。