日本版ヤスミン作品

アテネフランセ文化センターでのヤスミン特集。昨日の『ラブン』にはじまり、今日は『細い目』『グブラ』『ムクシン』まで観た。この4作品はこれまでに何度も観たけれど、日本語字幕で観るのははじめて。でも、違いは日本語字幕の有無だけではなかった。私はこれまでヤスミン作品はマレーシアの劇場で観るかマレーシアで買ったDVDで観るかのどちらかだったが、それらマレーシア版とでもいうべきものは、日本の映画祭で上映された日本版のヤスミン作品と少し違っていた。日本版には私がマレーシア版で観たことがない場面がいくつも入っていた。1つ1つ突き合わせたわけではないので私の印象に頼る部分が大きいけれど、日本版とマレーシア版の違いをメモしておこう。
ついでに、せっかくなので日本語字幕に関して気づいたこともメモしておきたい。それに関して少し前置き。私は若気の至りでマレーシア映画のDVDに自作の日本語字幕を入れようとしたことがあり、本当に本当にたいへんな思いをした経験がある。字幕翻訳は通常の翻訳とは違って、1秒に4文字という規定の字数におさめなければならないため、文字数を絞りに絞って全体で話が通る情報を提供しなければならず、だから実際に話されているセリフと字幕の内容が違っていることもありうる。元のセリフとは違うとわかっていても字幕ではあえてそのように訳すこともある。だから、単純に元のセリフと字幕の内容が違っていたからといって、字幕が間違っているというのは適切な態度ではない。そのことを十分に理解した上で、それでも気になるところがいくつかあったので、参考としてメモしておきたい。
繰り返しになるけれど、字幕はいろいろな制限がある中で作られているので、一見して原語とかけ離れているように見えても「誤訳」と言えるとは限らない。その意味では、日本版とマレーシア版の違いとは、場面がカットされているかどうかだけでなく、どのような字幕を当てるか(当てないか)を含めたものだと考えるべきだろう。


『ラブン』
ないものねだりかもしれないけれど、歌の字幕がなかったのがちょっと残念。マレー語の歌が多くて、もともとのシナリオに書かれていなかったためだろうと思うけれど、オープニングの歌を含めて、歌の内容にも興味深いものがあったので、歌にも字幕があればいいのににと思った。
オーキッドの両親の田舎の家の隣に住むお母さんの名前は、字幕ではノアになっていたけれどノルの方がいいと思う。


『細い目』
日本版を観てよくわかったが、マレーシア版ではカットされている場面がかなりあった。
マレー映画は昔はよかったのに最近はどうかしちゃったというオーキッドとジェイソンの会話。マレー人はみんな怠け者だというオーキッドのセリフ。マラッカ王国のスルタンの臣下たちはもともと中国人だったというキオンのセリフ。これらはマレーシア版では(DVDによるが)カットされている。
このほかに、1つの場面がすっかりカットされているものは、オーキッドの両親が踊っていて父アタンのサロンが脱げてブリーフ姿になり、母イノムを追いかけまわし、ヤムに見つかってアタンが恥ずかしそうに股間を隠し、ヤムが「また宝くじが当たったのね」と言っている場面がある。この場面はマレーシア版にはまったくなく、今回はじめて観た。これまでは、『細い目』の話の中にアタンのブリーフ姿や宝くじの話がときどき出てきて、どこにそんな場面があったのかと思っていた。
もう1つは、ジェイソンがオーキッドと会えなくなった後にカラオケ屋に行き、お姉さんにしなだれかかられるけれど逃げ出す場面。これもはじめて観た。
字幕で気になったところ。ヤムのことをカッヤムと書いているけれど、「カッ」は「姉さん」の意味。オーキッドはヤムのことを使用人ではなく家族の一員として扱っているので「カッ・ヤム」(ヤム姉さん)と呼んでいる。
字幕で苦労しているなと思ったのは、夜オーキッドに電話がかかってきて、ベッドの中で父アタンが母イノムに電話の相手について尋ねている場面。アタンが「誰からだ」と尋ねるとイノムがそれに答えて、その答えを聞いてアタンがびっくりして聞きかえす。実際のセリフは、イノムが「budak Cina」(華人の子)と言ったのをアタンが「betina」(雌)と聞きちがえて、オーキッドが女性と付き合っているのかとびっくりしている。日本語字幕では「中国野郎じゃなくて中国人の男の子」という感じに処理されていたように思う。


『グブラ』
マレーシア版と日本版の違いはあまり気がつかなかった。カマルが売春宿から出ていくときに「野良犬の方がまし」と言われている場面は、マレーシア版ではDVDによってはカットされているものもある。
日本語字幕が気になったところ。
冒頭、ビラルが道端の犬に話しかけた後で遠くに犬の声が聞こえたときのビラルのセリフ。字幕は「また木曜にな」となっていたけれど、あれだと道端にいた犬とまた会う約束をしている気がしてしまう。元は、「遠くで犬の声がした」=「村人以外の人が来た」なので、よそから来た人に「まだ木曜じゃないぞ」と言ったセリフ。(その背景は昨日書いた通り。)
アタンが病院に担ぎ込まれた先で、アム看護師のセリフが「糖尿病で目も開けられません」になっていた気がしたけれど、実際のセリフは「糖尿病で目が開いたままです」。
オーキッドがジェイソンの兄アランと「奥さんシンガポール人だったでしょ?」「元々はね」「マレー人になったの?」「離婚したんだ」というやり取りとしていた場面。ここは民族性ではなく国籍を問題にしているので、「マレー人になったの?」ではなく「マレーシア人になったの?」でないとおかしい。
ティマが不治の病に冒されたと知った後に3人でブランコに乗っている場面。字幕では、キアが慰めで「病気を治す薬の開発が遅れているって新聞で読んだ」と言い、ティマが「遅れたらどうなるの? 死でしょ?」と死を怖がっている様子が描かれている。元のセリフでは、キアが「進行を遅らせる薬が開発されているって新聞で読んだ」と言い、ティマが「何を遅らせるの? 死でしょ?」と言っていた。ただし、ティマが死を恐れているという意味はどちらでもちゃんと伝わっている。
キアがアイスクリームを買った場面で、1つ1リンギのアイスを3つ買って、字幕では売り子のセリフが「1つおごるよ」だったのでキアは2リンギ払ったことになるけれど、実際のセリフは「1リンギでいいよ」なので1リンギ払って3つもらったということ。
エンドロールの直前に書かれていたルーミーの言葉。字幕では「ランプの種類は違っても夜の闇は同じ」になっていたような気がしたけれど、原文は「ランプの種類は違っても光は同じ」、つまり宗教は違っても神の教えは同じという意味。
人の名前や呼び方をどう表記するかは難しいけれど、アナーというのはアヌアールにするか、せめてアヌアルかアヌアーの方がよかったように思う。それから、ヤムがアタンのことを「旦那様」と呼んでいるのも、字数制限などの事情があるのだろうが、オーキッド家では主人と使用人という関係を作らないように心がけていることを考えるとちょっと違和感がある。
病室でジェイソンのお父さんが同室の患者さんからもらった食べ物は鶏のルンダンだけれど、字幕では、最初にもらったときは「シチュー」、病院を去るときには「焼き肉」になっていた。
日本語字幕がうまく訳しているなと思ったのは、冒頭でビラルが礼拝堂に向かう途中にティマが「昨日は楽しんだわね」と言ったセリフ。実際のセリフは「髪が濡れてますね」だけれど、これは礼拝の前に妻と交わったら体を水で清めなければならず、髪が濡れていたということは妻と交わった直後ということになるので、文法的に見たら字幕とセリフはまったく対応していないけれど意味はちゃんと伝わっている。
マレー語の会話の一部には字幕がないものがあった。その部分は英語字幕もなかったので、脚本の段階からセリフとして書かれていなかったのだろう。たとえば、ティマが小学校でシャリンを迎えて、「何食べたい?」などと聞きながら下校する場面。ティマの「今日は何を勉強したの?」に対してシャリンが「算数」と答える。マレー語で「算数」は「ilmu hisab」だけど、この熟語を2つの単語に切り離すと、「ilmu」は「術」、「hisab」は「吸う」という意味になるので、ティマが「おっぱいの吸い方?」とからかう。シャリンが「違うよ、計算だよ」と答えるが、「計算」は「kira-kira」なので、ティマはkira-kiraに似ているkura-kura(亀)を持ち出して、「kura-kuraだって?」とふざけてみせる。
このやり取りをそのまま別の言葉に移すのは難しいけれど、
「今日は何を勉強したの?」
「数術。」
「おっぱい吸う術?」
「違うよ、掛け算と割り算だよ」
「カメさんとワニさん?」
あたりでどうだろうか。


『ムクシン』
日本語字幕で気になったところ。
雨の中で踊っているイノムとオーキッドを見て隣のロージーが「マレーシア人の誇りもない」と言っていたけれど、ここでは国籍ではなく民族性のことなので、正しくは「マレー人の誇りもない」。
日本版とマレーシア版の違いはあまり気がつかなかったけれど、アヌアールが歌っている場面がマレーシア版にあったか、ちょっと記憶がない。