ドキュメンタリー制作と研究

スマトラの噴火については引き続き状況を見守るとして、少し前になるが土曜日のアテネフランセ文化センターでのヤスミン・アフマド特集の対談のことを少し。

対談で石坂健治さんがうまくまとめていたけれど、ヤスミン作品は、香港映画やクラシック音楽などの引用が多く、その引用について語るだけでもおもしろいけれど、それらの引用を抜きにしても楽しめる作品になっている。この「引用がなくても成り立つ」というのがヤスミン作品の特徴で、引用によって作品を補強しようとしているのではなく、引用したものを自分なりに組み立て直すことで作品を作り上げていくようなところがある。マレーシア社会は世界各地からの移民から構成され、世界各地に起源がある文化の影響を受けているけれど、ただ外部世界から影響を受けているだけなのではなく、それらを積極的に取り込んで、いろいろな要素を織り込んだ「マレーシア社会」という1つの社会を作り上げている。そんなマレーシアのあり方を素直に表現しようとしたヤスミン監督の作品が、引用が多く、しかし引用抜きでも自立できる作品になっているのは必然と言えるかもしれない。

アテネフランセのヤスミン特集では、休憩時間に廊下や会場で他のお客さんたちの立ち話が聞くともなく耳に入ってきた。それを聞いていて、映像の専門家(特に自分で制作する人たち)にはその世界で共有されている「文法」があり、きちんとした研さんを積んでいない私には想像もつかない世界があるということを実感した。たとえば、映画を観たときにはまず映像に目がいき、これまでに誰がどの作品で試みたことがある撮り方と同じかを頭の中で検索しているようだ。私は物語の方が気になるけれど、その道の専門家の方々は表現方法に目を向けるらしい。
今回おもしろいなと思ったのは「長回し」という言い方。1つの場面が長いか短いかという客観的な指標かと思ったけれど、実際には否定的な意味で使われ、物語上は余計でカットした方がすっきりする部分を婉曲に言うために使われることが多いようだ。端的に言うと「ない方がいい場面」ということになる。
私は、目の前に出された作品を観て、そこに制作者が込めた想いをあれこれ深読みして楽しんでいるので、「この場面はない方が話がわかりやすい」と感じる場面があると、ありがたいとは思っても「ない方がいい」という方向に頭が働かない。他人に作品を観せるほどの制作者ならば、他人に指摘されるまでもなく、その場面をカットすればいいことは制作者自身でもよくわかっているはずだ。それなのにその場面を入れているということは、同じ素材で誰にでも作れる作品ではなく、他でもない自分の作品にするにはその場面はどうしても欠かせないという強い思い入れがあるからにほかならない。そうだとすれば、その場面を手がかりに考えていけば、その作品を通じて制作者がどんなメッセージを伝えたかったかに近づくことができる。でも作り手になると、「あそこはカットすればいいのになあ」という方向で頭が働くし、その感想を共有することでよりよい撮り方を模索しているということなのかと思う。
それはともかく、「長回し」に注目するのは研究に通じるところがある。一次資料を読むときでも他人の論文を読むときでもそうだけれど、どうしてこんなことを書くのか、どうしてこんな書き方をするのか、と引っかかるところを手掛かりに考えていくと、書き手が伝えようとしたメッセージがわかってくる(気がする)。

そんなことを考えながら石坂健治さんと松江哲明監督の対談を聞いていたら、映画の話なのに研究にも通じる点がいくつかあった。
ドキュメンタリーは商業動員的な映画とは作り方が違って、被写体と半年も1年もつきあって、素材も100時間分も集まって、そのなかの1時間分だけが作品になるし、しかも被写体に「こう語ってほしい」とお願いするのはダメだという。これは研究と一緒。あることがらを研究して論文を書くときには、関連する論文を一通り読んで、さらにその研究テーマに関係する資料を端から端まで読んで、大小さまざまな情報を集めていくのだけれど、集めた情報をそのまま全部書いたのでは論文にはならない。苦労して集めた情報や自分としてはおもしろいと思う情報も、論文の枠組みにあわなければばっさり切り落として、刈り込んでいったものを論文にする。
もう1つはファーストカットが大事だという指摘。ヤスミン作品のそれぞれについてどのシーンがお気に入りかという話のなかで、松江監督が、映像はファーストカットが大事だと言っていた。これも論文と同じ。本文は同じでも、序論の最初の3行をどう書くかを工夫することで論文の幅がぐっと広がる。例えばマレーシアのある問題の研究をした論文でも、「マレーシアでは・・・」と書き始めると読者をマレーシアに関心を持つ人に限定してしまう。そうではなく、そのテーマを人類社会全体に(あるいは世界全体に)置いたときにどんな意味がありうるかを序論で展開すると奥行きが出た論文になる、だから論文でもファーストカットならぬファーストセンテンスが大事だ、ということは先輩研究者に繰り返し教えられたことだった。
以前から感じていたけれど、ドキュメンタリー制作の方法論には研究の方法論に通じたところが多い。
ところで、松江監督の著書『セルフ・ドキュメンタリー:映画監督・松江哲明ができるまで』が今週にも刊行される予定らしい。私は映画作りとは無縁だが、この本は読んでみたい気がする。