なぜ「ムクシン」はイポーが舞台ではないのか

アテネフランセのヤスミン特集で知り合いになった映像関係の方とやり取りをしていて、どうやら映像の業界の人たちと私とでは映画に対する臨み方がずいぶん違うらしいことがわかってきた。
例えば「オーキッド3部作」とか「オーキッド4部作」とかいう言い方。この場でも何度か書いてきたが、私の考えは、物語上の直接のつながりがあるのは「細い目」と「グブラ」だけで、「ムクシン」はオーキッドの物語の外伝だし、「ラブン」はオーキッドの両親の物語の外伝という位置付けだ。だから、オーキッドの年代記ではどの順になるとかいった言い方は、見るたびに違和感があった。でも、彼氏によれば、それは物語至上主義であって、映像の世界では違う考え方をするらしい。
映像の世界には撮影手法や題材の扱い方などの分野があって、既存の分野にうまくはまると旗を立てることができて売り出しやすいらしい。ヤスミン作品も、「オーキッドの年代記」とか「オーキッド4部作」とかいう言い方をすると、映像の世界ではフラグが1つ立つので説明しやすくなる。だから、設定が多少違っていようが、そんなことはわかった上で、あえて「オーキッドの年代記」と言ったりすることもあるらしい。いわゆる「大人の事情」というやつだろうか。
それはそれでわかったので、今後は「オーキッドの年代記」とか書いてあってもあまり気にしないことにしよう。それはそうとして、もしそうだとすると、「ムクシン」は淡い初恋未満の物語で映像がきれいならばそれで十分で余計な読みは必要ないと言われそうだけれど、たとえ物語至上主義と言われようが物語を深読みする楽しさはやめられないので、「ムクシン」についてもちょっと書いておこう。


昨日書いたこととも重なるが、ちょっと違和感を持ったところが考える手がかりになる。「ムクシン」の場合は、どうしてこの作品だけ舞台がイポーじゃないのかがひっかかる。
「細い目」と「グブラ」はイポーの物語だ。オーキッドの物語ではないが、「ムアラフ」も劇中でイポーと言っている。「タレンタイム」の舞台は劇中では明示されていないが、マヘシュがメルーを乗せて走る町の看板にイポーと書かれているのでイポーが舞台だと考えていいだろう。
でも「ムクシン」はイポーが舞台ではない。撮影場所が違うという意味ではない。劇中で明確に違う地名を言っている。ムクシンとオーキッドが湖を観に行ったのはクアラ・スランゴールにある「乙女の墓所」と呼ばれる史跡だ。劇中で「スランゴル川」とも言っているので、舞台はクアラ・スランゴールで間違いない。
クアラ・スランゴールと言えば、日本ではクアラルンプール郊外の蛍見物のツアーで知られているが、そこからさらに30分ほど行ったところにある小さな町が「ムクシン」の舞台だ。町には学校がいくつかあり、それを抜けて行った奥にあるのが「乙女の墓所」だ。
クアラ・スランゴールの蛍ツアーは暗くなってからだから、それより2、3時間早くクアラルンプールを出て、「ムクシン」のロケ地を見てから蛍見物に行くというツアーはどうだろうか。ちなみに、ムクシンとオーキッドが訪れて湖を見た場所は「Makam Anak Darah」あるいは「Makam Keramat Anak Darah」と呼ばれている。階段の上に墓所があり、ふだんは施錠されている。
「ムクシン」ではほかに地名が言及されているところがないので、墓所さえ出てこなければ舞台はイポーだと言っても通用したはずだ。それなのにわざわざ墓所の話を入れているため、この物語の舞台はイポーでなくなった。ということは、逆に考えれば、ヤスミン監督にとってこの墓所のエピソードはどうしても入れる必要があったということだ。
この墓所は、自分の想いに反して結婚させられることになった娘が、結婚式の前日に水浴びしている間に姿を消してしまい、あとには木に衣がかかっているだけだったため、両親はそこに娘の墓を作ったという話だ。
人が突然消えたという奇跡の部分を脇に置いて考えるならば、これは自分の意に反して結婚させられそうになった娘が式の前に夜逃げしたという話だろう。もちろん1人で逃げたのではなく、その娘が結婚したかった相手と一緒だったに違いないし、そのことは両親も知っていたはずだ。でも、両親としては娘が逃げたと言うわけにはいかない。そこで、木に衣が残っていたのを指して、娘は衣だけ残してどこかに消えてしまったと言い、死んだものとするために墓まで作ったということだろう。
コミュニティにはコミュニティの決まりがあり、どんなに自由人として振舞おうが、そのコミュニティの一員として生きていく以上はコミュニティの決まりから逃れることはできない。それを守らないと、罰せられたり、そのコミュニティにいられなくなったりする。いられなくなるというのは、殺されるか、追放されて死んだ扱いを受けるということだ。
ただし、死んだ扱いを受けるということは、そのコミュニティで暮らしていくことはかなわなくなったけれど、別のコミュニティで暮らしていることまで否定されるわけではない。
「ムクシン」には同じ話が繰り返し出てくる。
オーキッドは男の子のカバンをバスの窓から投げたため、(建前上は)鞭打ちの罰を受けた。
アタンはソファー代を毎月支払うという決まりを守らなかったため、ソファーを取り上げられた。
猫のブジャンは鶏を襲わないという決まりを守らなかったために家から追放された。家にいなくなったので死んだのと同じようなものだ。
このように、コミュニティの決まりを守らないと、罰せられるか追放されるかのどちらかになる。
ただし、追放されて別の世界に行ったとしても、生命が消えるとは限らない。逆に言えば、死んだと言っても、その存在が消えてしまったとは限らず、別の世界で暮らしているかもしれない。
ムクシンの兄フセインは母親が自殺したと聞かされたが、母親が本当に死んだかはわからない。「死んだものと思ってくれ」と言われたということで、もしかしたら本当は生きているのかもしれない。でもフセインにはもう母親に会えないので、フセインにとっては母親は死んだのも同じこと。
事故で亡くなったはずのジェイソンは、オーキッドやムクシンの前に姿を現した。(姿を現した場面が凧上げだったのが象徴的。中華世界では凧上げは死者にメッセージを伝えるために上げるもので、凧は生者と死者を結びつけるようなものとして扱われている。)
猫のブジャンは追放されて死んだのと同じ扱いになったけれど、自力で戻ってきた。別の世界に行ってしまったと言っても死んだわけではなく、また会う機会があるかもしれない。
このように「ムクシン」の劇中で繰り返し発せられているのは、死んだと言っても消えてなくなってしまったわけではない、この世界では出会えなくなったけれど、別の世界で別の暮らしを送っているかもしれないし、もしかしてもしかしたらいつかまたふと出会うことがあるかもしれない、というメッセージだ。
ヤスミン監督が具体的に誰のことを念頭に置いてこのメッセージを発していたのかはわからない。でも、ヤスミン監督がこの世界からいなくなった今となっては、これをヤスミン監督のことだと思って受け止めてもいいのかもしれない。
「ムクシン」はオーキッドの物語以外の部分が「長回し」で話がわかりにくいという意見もあるそうだが、物語やメッセージで楽しむ私にとっては、猫やソファーやムクシンの兄の場面があるからこそ物語の読みがいが出てくるということになる。