『歓待』『告白』など

この半年のダイジェスト版。まずは映画。
よかったのは『歓待』。観る人によっていろいろな見方ができそうな映画で、社会学とか哲学とかに関心がある理論派の人も、社会のセーフティネットに関心がある実践派の人も、それぞれハマるんじゃないだろうか。私の関心はどちらでもなくて、日本社会と対照的なマレーシア社会の人間関係のルールを突然日本に持ち込んだらどうなるかという話としておもしろかった。マレーシア的な多文化の混成社会のあり様をコミカルかつ鋭く描いた作品。いや、この映画にマレーシアは全然出てこないんだけど、でも観ているとどうしてもマレーシアを思い出さずにはいられない。マレーシアの社会と文化について紹介する教材にいいかなとも思ったりする。あまりよかったので、舞台になっている墨田区の荒川の土手や鳩の街商店街を歩いてきた。それについては別の機会に。『歓待』は3月の大阪アジアン映画祭でも上映されるらしいので、もう少し細かい感想はその後にでも。


映画芸術』という雑誌にアジア映画の記事が多かったので読んでみたら、2010年度の邦画のベスト・ワーストのランキングも載っていた。ベストの上位作品は観てないものばかり。ワーストの1位は、2位以下に圧倒的な差をつけて『告白』。これは観た。けっこうおもしろかったけどなあと思い、じゃあベストはどんなのだろうかと思ったところ、ちょうど2位の『堀川中立売』が渋谷で公開中だった。舞台となっている堀川中立売や晴明神社には妙な親近感があるので、思い立って観てみたけれど、うーん、さっぱりわからなかった。たぶん映像上の技術や手法などいろいろ斬新なものを使っていて、最先端かつ挑戦的な作品なのだろうなとは薄々感じるけれど、私の理解をはるかにはるかに超えていた。『映画芸術』のランキングをそのまま受け止めれば、『堀川中立売』の意味がわからなくて『告白』をおもしろがっているようでは「映画の道」はまだまだということかもしれないが、もしそうならそのままでいたいと思う。
映画芸術』についてついでに書くと、東京国際映画祭の感想ノートも、私が感じたのとはかなり違うところもあって、そんなものなのかととても興味深かったけれど、それはともかく、東京国際映画祭にしても映画芸術評論賞にしても、思考や討議の過程を公開してくれているのはありがたい。


ついでに『告白』。自分としてはおもしろかったんだけど、ダメだという人はどこがダメなのかを調べてみたら、状況が台詞で語られていることを挙げている人がいた。なるほど。映画は小説と違って文字ではなく映像を使うのだから、言葉ではなく絵で表現しろということか。確かに。でもね、『告白』では、それぞれの登場人物が自分の物語を過剰なまでに語っていて、それが現実のこととは限らないんだけれど、それでもそれぞれが発した言葉が積み重なって物事が進んでいくという話で、そんな状況の中に身を置かざるを得ないという今の世の中のあり方をとてもよく表現しているように思える。観ていて痛々しいし、登場人物の誰かに同情できるということではないんだけど、それはこの作品世界を成り立たせる仕掛けなのであって、それを批判してリアリティがないとか言うのであれば、今の社会のリアリティを捉え損ねているんじゃないのかと逆に問いたくなる。


『告白』では「言葉」とともに「血」が過剰なのが興味深い。それについては改めて書く機会があるかもしれないけれど、そこからの連想もあって『ジーン・ワルツ』も観た。でも、これに対する感想は以下の記事で言いつくされていると思った。
http://arakisin.diary.to/archives/51677205.html
1つ付け加えるとしたら、「体制の中と外」という話があったけれど、マリアクリニックだって「体制の中」じゃあないのかということ。
もう1つ、物語とは直接関係ないけど、赤ちゃんがおなかの中にいるときから名前をつけて、すでに人格があるように扱うというのは最近よくあることなんだろうか。ずいぶん前の話だけど、私が知っている出産では、赤ちゃんが生まれてくるまでは「赤ちゃん」と呼ばれていて、名前は生まれた後に付けられた。生まれるまで性別がわからなかったから? 出産は一大事業で、本当に無事生まれるかわからなかったから?

映画『告白』−「血のつながり」という幻想

『告白』を観たときに書いたメモ。
『告白』を観た。原作を読んでおもしかったので、あれがどのように映像になるのかと興味を持って観に行った。想像以上によく、かなり楽しめた。もしかしたら原作を読まずに映画だけ観ると話の筋を追いにくいことがあるかもしれないと思ったけれど、それについてはあまり考えない。
基本的に原作をうまくそのまま映像にしているけれど、それだけでは足りない部分を映画でいろいろ補っている。これはすごいなと感心したのは、最後の方で逆に動く時計をうまく使っているところ。逆に動く時計は原作にも出てくるけれど、あれをあの場面でああやって使うことは原作に出てこない。この映画を作った人は、原作をよく読みこんで、原作者よりもこの作品についてよく語れるほどになったということだろうか。
本筋と違うところで関心を持ったことを1つ。「血」と「言葉」について。
『告白』は言葉がたくさん語られすぎると言われているようだけれど、それ以上に繰り返し出てくるのは「血」だ。映像でもたくさん出てくるし、言葉でも何度も出てくる。「血」が持つ意味は場面によって違う。自分の血を受け継いだのだから少年Aは頭がいいんだと少年Aの母親が言う場面では、血筋や血統という意味で使われている。これに対して、熱血先生の血を飲ませたとか飲ませないとか、いじめられた少年Aが指を切っていじめっ子の顔に自分の血を付けようとしたとか、少年Bが手を血だらけにして店の商品に触ったとかいう場面では、血は病気をうつすものとして描かれている。一方では知性を伝えるもので、もう一方は病気をうつすもの。どちらも「血」は何かを伝える媒介になっていて、その意味で『告白』ではいろいろな意味で「血のつながり」が何度も繰り返されている。
その上で、『告白』は、実際には「血のつながり」は何も伝えていないということも明らかにしている。少年Aが母親から知性を受け継いだのは、母親から渡された大量の本を読んだためだった。血ではなく文字によって、しかも母親からではなく古典から知性を受け継いでいる。血によってHIVウィルスをうつすという話も、どれも思い込みでしかなかったことが明らかにされる。そして、(病気ではないが)悪意を伝えるものとしては、寄せ書きやメールやウェブサイト上の書き込みなど、やはり文字が中心になっている。
ということから考えると、この映画のメッセージの1つは、「血ではなく言葉」ということになる。世の中には「血のつながり」に意味があると思う人はたくさんいるけれど、それは幻想なのだと目をさまして、実際には文字(あるいはもう少し広げてコミュニケーション)によって人びとは関係をもち、動いているのだということを改めて認識しなさいというメッセージだ。その上で、この映画がおもしろいなと思うのは、そこで話を終わりにしないでもう一段上のメッセージも同時に発していること。「結局は世の中の自分の立ち位置を示すのは言葉でしかない」という状況を作った上で、では今の世の中はどんな言葉から成り立っているかを描いている。同じ出来事を複数の人に言葉で語らせることによって、それが真実であるかはわからないという状況を作っている。言葉で伝えるしかないのに、そこにあるのはコミュニケーション不在という状況。それを描くための仕掛けとしての言葉の過剰。これをリアリティがないという人はどういう世の中で暮らしているのかと思う。