映画『告白』−「血のつながり」という幻想

『告白』を観たときに書いたメモ。
『告白』を観た。原作を読んでおもしかったので、あれがどのように映像になるのかと興味を持って観に行った。想像以上によく、かなり楽しめた。もしかしたら原作を読まずに映画だけ観ると話の筋を追いにくいことがあるかもしれないと思ったけれど、それについてはあまり考えない。
基本的に原作をうまくそのまま映像にしているけれど、それだけでは足りない部分を映画でいろいろ補っている。これはすごいなと感心したのは、最後の方で逆に動く時計をうまく使っているところ。逆に動く時計は原作にも出てくるけれど、あれをあの場面でああやって使うことは原作に出てこない。この映画を作った人は、原作をよく読みこんで、原作者よりもこの作品についてよく語れるほどになったということだろうか。
本筋と違うところで関心を持ったことを1つ。「血」と「言葉」について。
『告白』は言葉がたくさん語られすぎると言われているようだけれど、それ以上に繰り返し出てくるのは「血」だ。映像でもたくさん出てくるし、言葉でも何度も出てくる。「血」が持つ意味は場面によって違う。自分の血を受け継いだのだから少年Aは頭がいいんだと少年Aの母親が言う場面では、血筋や血統という意味で使われている。これに対して、熱血先生の血を飲ませたとか飲ませないとか、いじめられた少年Aが指を切っていじめっ子の顔に自分の血を付けようとしたとか、少年Bが手を血だらけにして店の商品に触ったとかいう場面では、血は病気をうつすものとして描かれている。一方では知性を伝えるもので、もう一方は病気をうつすもの。どちらも「血」は何かを伝える媒介になっていて、その意味で『告白』ではいろいろな意味で「血のつながり」が何度も繰り返されている。
その上で、『告白』は、実際には「血のつながり」は何も伝えていないということも明らかにしている。少年Aが母親から知性を受け継いだのは、母親から渡された大量の本を読んだためだった。血ではなく文字によって、しかも母親からではなく古典から知性を受け継いでいる。血によってHIVウィルスをうつすという話も、どれも思い込みでしかなかったことが明らかにされる。そして、(病気ではないが)悪意を伝えるものとしては、寄せ書きやメールやウェブサイト上の書き込みなど、やはり文字が中心になっている。
ということから考えると、この映画のメッセージの1つは、「血ではなく言葉」ということになる。世の中には「血のつながり」に意味があると思う人はたくさんいるけれど、それは幻想なのだと目をさまして、実際には文字(あるいはもう少し広げてコミュニケーション)によって人びとは関係をもち、動いているのだということを改めて認識しなさいというメッセージだ。その上で、この映画がおもしろいなと思うのは、そこで話を終わりにしないでもう一段上のメッセージも同時に発していること。「結局は世の中の自分の立ち位置を示すのは言葉でしかない」という状況を作った上で、では今の世の中はどんな言葉から成り立っているかを描いている。同じ出来事を複数の人に言葉で語らせることによって、それが真実であるかはわからないという状況を作っている。言葉で伝えるしかないのに、そこにあるのはコミュニケーション不在という状況。それを描くための仕掛けとしての言葉の過剰。これをリアリティがないという人はどういう世の中で暮らしているのかと思う。