メダンとアヤアヤ・チンタ批判

北スマトラ州の州都メダンへ。
ここでも一通り本屋まわりとビデオ屋まわり。一番の期待は、今年3月にメダン初の地元映画が売られていたので、きっとそのあとでいくつも出されているだろうというもの。ところがどのビデオ屋に行ってもメダンの地元映画が売り出されていない。聞いてみても、そういえばこんなのがあったっけと3月に買った「金の卵」が出てくる程度。メダンではこの方面で参入する人は多くなかったらしい。


かわりにどのビデオ屋でもたくさん並んでいたのが、インドネシアで爆発的な人気を誇ったイスラム教の恋愛映画『アヤアヤ・チンタ』(Ayat-Ayat Cinta)。ここでもかと思いつつも、店員たちに例のごとく「マリアとアイシャのどっちがよかった?」と尋ねると、ジャカルタとちょっと反応が違う。アイシャがいいという人が多いのは同じだけれど、なかにはマリアがいいという人もいて、そして「映画を観てないのでわからない」「どっちもいい」という人がけっこういる。
メダンではアヤアヤ・チンタはあんまり流行ってないのかなと思ったけれど、どうやらそうではないようだ。メダンはバタック人や華人の非イスラム教徒が多い。彼女たちにとって、ムスリムが多数派を占めるなかでおおっぴらに「アイシャは好きじゃない」とは言いにくい。つまり、「観てない」とか「どっちもいい」という人のかなりの部分はマリア派であると見た。「アイシャとマリアのどっちがよかった?」と聞くときには、映画の話で済まなくなる可能性があるので気をつけた方がいいようだ。


そんなことを考えながらメダンを歩いていて見つけた本がこれ。
Tafsir Cinta Ayat Ayat Cinta (Zaenal Abidin Syamsudin, Pustaka Imam Abu Hanafiah, 2008)
映画アヤアヤ・チンタおよびその原作である同名の小説に対する批判本。表紙も原作の表紙に似せて作ってある。
その主張は、「多数派が常に正しいとは限らない。少数派の主張にも真理はある。多くの人がアヤアヤ・チンタをもてはやしているけれど、イスラムの教えに照らして看過できない問題がいくつもあるので指摘したい。」というもの。「イスラムの教えにおける正しい愛について」「映画を通じた伝道の問題点について」「文学作品として見た「アヤアヤ・チンタ」について」などいろいろな角度から批判していて、総攻撃の感がある。各セクションの見出しが映画/小説に対する批判になっていて、目次をざっと見るだけでも気合が入る。イスラム教の立場から正面からアヤアヤ・チンタを批判したものははじめて見つけた。
「文学作品・・・」の章では、インドネシアの批評家や小説家がこれまでに新聞・雑誌やネット上で書いたアヤアヤ・チンタ評を集めている。目を引いたのはインドネシアの小説家アユ・ウタミの批評。「貧しい青年がなぜか晴れ舞台に出ることができ、そこで突然女たちの人気を集め、冒険の末に女が改宗してハッピーエンドというストーリーは、キリスト教イスラム教を置き換えれば1950年代のハリウッド映画と同じ。そもそも小説とは読者に問いを投げかけるものであって、モスクや教会の説教のように読み終わった後にすがすがしい気持ちでアーメンと言いたくなるようなものは小説ではない」と厳しい。