「ネイティブらしい話し方」

正月気分を振り払うかのように仕事のメールが入り始めた。年頭に当たり、もし今年の目標を尋ねられたらまっさきに「英語の研究発表や論文執筆は全て断る」を挙げるつもりで新年を迎えたが、そんなときに限って英語の話が舞い込んでくる。何が嫌かというと、書くのに手間がかかるのもそうだけれど、ネイティブ話者たちが「わからない」と言ったら価値が低いと判断される力関係。そりゃあ言葉の問題じゃなくて読み手の頭の問題じゃないのかと言いたくなることもあるが、そう言ったところで話は進まない。
こんなことを考えていたためか、妙なご縁で、中国語の専門家と日本語の専門家とそれぞれお話しする機会があった。示し合わせたわけでもないのに、言葉を非ネイティブにどう開くかという話になった。
日本語教育の分野には学習者の日本語能力をどうはかるかという試験と基準があり、その試験者になるための研修があるらしく、その基準に関して「ネイティブからみて自然か」という観点を入れるかどうかで議論があるそうだ。情報を伝達することはきちんとできているけれど、「その場面でそのような表現をしたら相手に受け入れられにくい」という表現しかできていないと日本語の運用能力が低いとみなされるらしい。どうして能力が低いと判断されるのかを説明するときには、いろいろ説明は試みるけれど、でも最終的には「ネイティブからみて自然な言い方ではない」としか言いようがないという(でもそう言ってはいけないことになっているので大変らしい)。それを言い始めたら、非ネイティブの学習者はどうやったところでネイティブにはかなわないわけで、非ネイティブの学習意欲をそぐことにならないのだろうか。それともその方がかえって学習意欲が高まるのだろうか。
中国語の方でも似たような話があった。とってもおおざっぱに言えば、大陸中国人と台湾人と香港人とマレーシア華人が同じ華語で話をしても、大陸中国人からみればマレーシア華人の華語はどこかおかしいと感じられてしまうという話。しかも悲しいことにその考え方をマレーシア華人も受け入れてしまっていたりする。自分たちだってネイティブ話者のはずなのに。
東アジアだとそうなると言ってしまうと安直だろうか。
これと対照的なのがマレーシアのマレー語。マレー語はもともとマレー人の母語で、それをマレーシアの国語にして「マレーシア語」と呼んだ。マレーシアではマレーシア語の運用能力をはかる試験を行っていて、民族性によらず基本的にある年齢に達したら国民がみな受けるもので、それにパスしないと公務員になれなかったり昇進できなかったりする。これだけ聞くと非マレー人に不利だと思うかもしれないが、おもしろいのは、この試験の採点基準を明確にするために国の機関がマレーシア語の文法と語彙集を刊行していて、これに従っている限りは試験で正当とされ、従っていないと誤答とされること。一般のマレー人からみて「自然」であるかどうか、自分たちが日常的に使っているかどうかは採点に反映されない。だから、華人やインド人の方がマレー人よりも合格率が高くなる。マレー人はネイティブだからとろくに準備しないで試験に臨むために誤答が多いらしい。(ただしこれは国が行う試験の話。残念ながら日常生活レベルではそうでもなくて、マレー人が非マレー人に対して「マレー語が下手」とからかったりいじめたりすることもある。)
そんなことを考えながら、明日からまた違う言葉の国に行く準備をしている。