『東京人間喜劇』

大阪アジアン映画祭の深田監督特集で『東京人間喜劇』を観た。
家族・夫婦や友人・恋人のような人間関係とは何なのか。自分自身の一部だと思っていて、離れてもいつかもとに戻ると思っているものについて、いざ離れてみるとその途端にもともと自分とは別のものだったことがわかる。白猫も右腕もそうだし、家族や友人もそう。写真もそうかな。
3つの物語の登場人物は、互いに街角ですれ違っているけれど、はっきりとは出会わない。1話目は階段を上ったり下りたりすることでステージが変わる世界であるのに対して、2話目は自転車で移動する平行移動の世界。生活の一部が重なっていても、「巡礼圏」がずれているので互いに出会わない。
3つの物語の関わりということでは、1話目の母子手帳は3話目の夫婦のものだったんだろうか。つまり、3話目の夫婦が1話目の舞台を見に来ていたということ? 深田監督の作品は(といってもまだ2つしか観ていないが)スクリーン上で一から十までを描くのではなく、ちょっと想像力を働かせればわかるかわからないかというところで寸止めにして観客に提示する。だから、観客があれこれ考えて自分なりにつじつまを合わせて、自分で読み取ったんだと思ってハッピーになるという仕掛けが施されている。でも、この母子手帳はもうちょっとわかる仕掛けをしてもよかったかも。母子手帳を手に取って「誰のだろう」と言ったとき、「真実って何て読むのかな」と付け加えるとか。もしかしたら画面には母子手帳に書かれた名前が映っていたかもしれないけれど、残念ながら見逃した。


劇中で、『ツアラトゥストラはこう言った』第三部の「快癒に向かう者」の一節が引用される。


 言葉があり、そのひびきがあると言うことは、なんといいことだろう。言葉とひびきとは、まったくかけ離れたものを結ぶ虹であり、まぼろしの橋ではなかろうか?
 おのおのの魂には、それぞれ別の世界が属している。おのおのの魂にとって、すべての他の魂は、一つの及びがたい彼岸の世界なのだ。
 一見きわめて似ているものどうしをつなぐとき、まぼろしの橋はもっともみごとな嘘をつく。というのは、もっとも小さい裂け目こそ、実はもっとも埋めにくい裂け目だからだ。


劇中で引用されるのはここまでだけれど、この後は次のように続く。


 わたしにとって−どうして『わたしの外界』などがあり得よう? 外界などはないのだ! ところが、われわれはあらゆる言葉の響きを聞くごとに、そのことを忘れる。忘れるということは、なんといいことだろう!
 どんな事物にも、名前やひびきがあたえられているのは、人間がそうした事物によってたのしみ、元気づくためではなかろうか? 語ることは、ひとつの結構な痴れごとだ。語ることによって、われわれは万物のうえを踊り越えて行く。
 およそ語ること、言葉のひびきが醸しだすあらゆる嘘は、なんといいことだろう! ことばのひびきによって、われわれの愛情が、七色の虹のうえで踊る。


「忘れること」は『歓待』の隠れたテーマでもある。平手打ちとともに、深田監督が『東京人間喜劇』のときからすでに抱えていたようだ。