カフェモンド

アジア映画のおもしろさは混血性と越境性にあって、その2つをあわせた混成性をキーワードにしてアジア映画を楽しもうというのが混成アジア映画の考え方だ。この考え方の源流の1つ(というか1人)とジャカルタで会って話を伺う機会があった。
インドネシア映画(や他のアジア映画)を過去から現在まで観てきた歴史的な深さと、インドネシア社会について政治・経済から社会・文化まで幅広い知見を持っている分野横断的な広がりを持っていて、映画を観てもその作品だけを切り取って見るのではなくいろいろな参照点のなかでその作品の位置づけが頭の中で浮かび上がってくるような人。しかもその参照点のソースは本あり噂話あり実体験ありネット情報ありといろいろなメディアが混じっている。
その人もディープな人だけれど、同じようにディープな人たちと対面でつながりがあるし、さらにネット上や紙媒体の情報の収集・発信の結節点にもなっている。さまざまなアイデアが行き来して、混じりあい、もともと誰のアイデアだったかという帰属が薄らいでいって、アイデアの共有財のように広がっていく。そうと知らずに間接的にいろいろな人がネット上に拡散していったアイデアの影響を受けているはずで、混成アジア映画もそのようなアイデアのいくつかが集まって形を成そうとしている像の1つ。
本業は映画と直接関係ないのでその人について直接書くことは控えるけれど、さらに起源をたどればアチェの大モスクだったというのもまた1つの縁かと思う。


さて、そんなインドネシア文化のキュレーターのような人に案内していただいたのが南ジャカルタのファトマワティ通りにあるCafe Mondoで、オーナーの泉本さんとお話する機会があった。クマン地区から移ってきた建物の由緒とか、最近のジャカルタのグラフィティをめぐる攻防の話とか、おもしろい話は尽きないけれど、どれもおもしろい話で終わっていなくて、ジャカルタの日々の暮らしに結びつけられて話が広がっていく。その先に見ているのはジャカルタから世界が変わっていく様子なんじゃないかしら。
お店が入っている建物の1階に集まっている若者たちの様子や、壁の貼り紙などを見ていて、国際社会では大国が好き勝手なことをするし国内では政治家や富裕層が好き勝手なことをするしで閉塞感が強まっていると感じながらも、現場で使える媒体をうまく使ってどんな手を打つことができそうかを考えて、工夫しながら試してみようと思う人たちが集まっている熱気を感じた。
以前インドネシアの1998年の民主化から10年目をテーマにした短編映画をいくつか観たとき、「10年前は改革だと言ってこぶしを振り上げていたけれどいざ家族や部下たちを養わなければならない立場になると改革とばかり言ってもいられない」という話が出てきた。そんなものかなと思っていたけれど、それから10年が経って、またそれと違う側面に注目が集まるようになってきたということだろうか。
屋上からジャカルタ市街の様子が望めるカフェモンドの営業は水曜〜日曜の午後4時から。