インドネシア映画『Surga yang tak dirindukan』

『Surga yang tak dirindukan』を観た。ジャカルタ市内のDVD屋さんが壊滅状態で、ようやく見つけた1枚がこれ。
数日前に観た同タイトルの2の前編。こちらが作られたのが2015年、2が公開されたのが2016年12月から2017年にかけて。
先に2を観てから1を観たけれど、もしかしたらその順番の方がよかったかも。


舞台はジョグジャカルタ
幼い頃に母親が自分の目の前で自殺したことが今でも忘れられない青年プラス。ソロ出身で建築家。大きな商業施設を建てるよりも孤児院の建物を作ったりする方が性に合っている。
自分で作った物語を人形芝居にして子どもたちにイスラム教を教えているアリニ。ジョグジャ出身。
2人が出会い、惹かれあって、結婚して娘のナディアが生まれる。
この3人は2でも家族だった。
プラスは困った人を見ると放っておけない。ある日、目の前で交通事故を見て、運転席にいた瀕死の女性を病院に担ぎ込むと、その女性メイは妊娠していた。メイは病院で男の子を出産するが、自分の人生を悔いて自殺しようとする。メイの自殺を食い止めるため、君の人生は僕が責任を持つ、その証として君と結婚する、とプラスが説得して、メイは自殺を思いとどまり、2人は病室で結婚する。
こうしてプラスは2人の妻を持つことになった。そのことを妻アリニにどのように伝えて、アリニはそのことをどのように受け止めるのか、そして1人の夫と2人の妻と2人の子どもの生活はどうなるのか、というのがこの物語のメインの話。
プラスの友人たちが一夫多妻についてあれこれ議論したり、夫が浮気しているみたいだから離婚したいというアリニの友だちが出てきたりして、さまざまな角度から一夫多妻の是非が議論される。プラスも、一夫多妻に関わる章句をすべて暗唱できるほどクルアン(コーラン)を十分に理解した上で、それに照らして適切な行動をとったと考えている。でも唯一の愛する妻であるアリニには2人目の妻がいることを言いにくいと感じている。
一夫多妻はどういう状況であれば受け入れることができそうか、その場合にも実際にどのようなプロセスを経て受け入れられていくのかという狭い道が、コーランの教えや地域社会の考え方や時代の考え方や個人の思いなどのためにさらに曲がりくねった細く狭い道になっていくけれど、それを何とかたどっていく。
物語がどのように展開して狭い道をたどっていったのか、そして最後に登場人物たちがどのような選択をしたのかは、観る人によって賛否が分かれるかも。私は最後の選択に釈然としない部分が残った。でも、まあそういう人生の選択もあるのかもしれないとも思う。いずれにしろ、「Surga yang tak dirindukan 2」の結末の意外さに比べれば1の結末の方はずいぶん受け入れやすい。


タイトルの「Surga yang tak dirindukan」は、2を観たときは、物語の内容と重ねて「どこにあるかわざわざ探す必要がない天国」ということで「いつも天国とともに」と解釈した。それはそれで適切だと思うけど、1だと「あなたと一緒に行きたいと思うわけではない天国」という意味が強いような気がする。それが2になると同じタイトルのまま物語の文脈が加わって意味が反対になるというにくい仕掛けなのかも。


主役の「ミスター優柔不断な善人」は、出世作となった『アヤアヤ・チンタ』の続編『アヤアヤ・チンタ2』が今年12月に公開されるらしい。ちょうどメトロマニラ映画祭と日程がかぶりそうなのが気になるけれど、これは何としても観ないと。