読売文学賞

今日は空港に行く用事があり、道が冠水で通れなかったらどうしようと思って恐々出発したけれど、まったく問題なく高速道路を通って空港まで行けた。昼ごろで道がすいていたせいもあり、スナヤンの高速ゲートから空港まで飛ばして30分。途中、数日前に冠水したところを通ると、水を吸い出した後のポンプ車が何台も停まっていた。


2月4日発行のTEMPO誌がスハルト特集号だった。ぱらぱらページをめくると先日の劇団態変の舞台を紹介した記事も載っていたりしていろいろ興味深いのだけれど、それはいずれ読むとして、今日の話題はプラムディヤの4部作を日本語訳した押川典昭先生の読売文学賞受賞。
http://info.yomiuri.co.jp/prize/bungaku/59th/oshikawa.htm


プラムディヤの4部作については改めて説明するまでもないので省略。とにかく読むべしとしか言いようがない。


押川典昭先生には学生時代にインドネシア語を教わった。授業は訳読。内容がない文章を読んでもおもしろくないからと、辞書がようやく引けるか引けないかの段階でもインドネシアの文学作品を読ませるのが押川流だった。
学生が前後の文脈やテキストの舞台設定などを参考にしながらだいたい意味が通る日本語訳を作ってきても、押川先生は決して納得しなかった。
学生がまず一文を訳す。先生は何も反応しない。しばらく待って、次に進んでいいのかな、と次の一文を訳そうとすると、「さっきの訳だけど・・・」と検討が始まる。どうやら、頭の中でいろいろな言葉を浮かべて、その文にもっともふさわしい日本語の文になるまで検討を続けていたらしい。
巨人の星」だか「ドカベン」だったか、1球投げるのに1週間かかるっていう突込みがあるけれど、押川先生の授業もまさにそれで、1回の授業で1段落進むか進まないかということもしょっちゅうで、テキストの一文一文を書かれている通り厳密に読むことを厳しく厳しくしつけられた。
ずいぶん後になってわかったのだけれど、「厳密に読む」というのは、ただ文法的に正しく読むだけではなくて、書き手が伝えようとしたことを読み取るということだった。植民地支配下インドネシアで人々がどのような状況に置かれ、どのような希望と怒りを持って、どのような将来のために日々たたかっていたかを理解して、その上でようやく日本語訳が意味を持つということだった。押川先生の授業では訳文の出来ではなく生き方が問われていたと言っても決して言い過ぎではない。
書き言葉よりも若者たちが気軽にしゃべる今風の言葉の方に親近感があった私は、押川先生のインドネシア語や日本語の「固さ」に違和感を持ったこともあった。でも、インドネシアからの留学生が話すインドネシア語を押川先生が「そのインドネシア語は間違ってるよ」と堂々と指摘するのを聞いたりするうちに、押川先生にとって言葉とは特定の人々に属するものでその人たちが自分たちの伝えたいことを特定の相手に伝える手段なのではなくて、「正しい思想」を伝える人類共通の手段なのだということが少しわかった気がした。「言葉の力」を信じているからこそ、言葉を正しく使うべきだということなのだろう。
同じころに押川先生からインドネシア語を習っていた人たちは、その後インドネシア研究の道に進み、インドネシア研究で博士号を取ったり研究書を翻訳したりと、それぞれの分野で活躍して成果を出している。私は押川先生に習ったインドネシア語がどれだけ身に付いたかは怪しいけれど、1つ1つの言葉にはそれを発した人が込めた意味があるという考え方には今でも強く影響を受けている。人々が発するいろいろな言葉を私が「深読み」するようになったのもそのせいだったりする。


言葉つながりでもう1つ。
押川先生にインドネシア語を習っていたのと同じころ、輿水優先生にも中国語を習っていた。
中国語だとテキストの字面を見てだいたい意味がわかるので辞書を引かずに授業に出たりしたが、「日本語と中国語は違う言葉なのだから、漢字が同じでも意味が同じとは限らない、そのまま日本語にしても意味が通じることは多いだろうけれど、違う言葉であることを意識するため、そのままで意味がわかると思う単語でも必ず辞書を引いて、そこにある語釈に端から端まで目を通して、あえて違う漢字の訳語を見つけなさい」と厳しく厳しくしつけられた。
そのせいもあって、華語(中国語)の団体名などを日本語の文章の中でそのまま原語表記しているのを見ると、日本語の文になってないじゃないかと思う。日本語でマレーシアのMCAを「馬華公会」と書いたりPKMMを「マレー国民党」と書いたりして、その根拠に「華語でそう書いているから」と言ったりしているのを聞くとがっかりする。