インドネシアとマレーシア

ラスカル・ワタニヤ改めアスカル・ワタニヤについてコンパス紙にコメントを寄せていた政治学者のIkrar氏を訪ねた。ちょうど日本からインドネシア政治学者が訪ねて来ていて、日本とインドネシアの2人の政治学者から話を聞く機会となった。
ラスカル・ワタニヤ - ジャカルタ深読み日記

アスカル・ワタニヤについてはどちらも問題外という扱い。マレーシアとインドネシアの国境問題は両国で場を設けて協議してきているのに、国内の経済問題から国民の目をそらせようとする政治家たちが利用して騒ぎ立てているだけ、でもインドネシア国民にはマレーシアと聞くと敵対心が湧いてきて思考停止になる人が多いので困ったものだ、とのこと。


そこからマレーシアの話に移って、来月の総選挙の話などになった。興味深いのが次のような日本人政治学者のマレーシア観。
来月のマレーシアの選挙は、インドネシアではもっぱらレフォルマシ(改革)との絡みで報じられている。10年前にレフォルマシを掲げてマハティール前首相に対抗し、失脚したアヌアール・イブラヒムは、今年4月まで政治参加の権利を剥奪されている。政府は任期満了まで1年を残して国会を解散し、3月中に投開票すると発表された。したがって今度の選挙にアヌアールは参加できない。それを指して「マレーシア政府はいやらしい」という。わかったうえで国会の解散時期を決め、その結果としてアヌアールを選挙に参加させないように仕組んだ、しかもそれを法律のせいにして自分たちは知らない顔をしていることがいやらしい、ということのようだ。
私の感覚では逆で、マレーシアではルールが誰の目にも明らかにされていて(というより、誰でもアクセスできるところに記されていないルールはルールとして認められない)、それにしたがって自分の利益を最大にするために行動しているのであり、「いやらしい」とは対極にあるというのが私の考え。政府もルールの範囲内ぎりぎりで(たとえルールからはみ出すことがあっても後で何とかこじつけでも正当化できる範囲内で)自分たちが有利になるように選択して行動しているのだし、そういう態度もまた国民による評価の対象になる。
ルールはどこかに存在するけれど、どこで誰がどういうルールを作っているかもそれらのルールがどの程度適用されるかも明確でなく、でもあるとき突然ルールが示されてよくわからないままに処罰され、その一方で有力者に個別にお願いするとその人だけルールの適用が甘くなる、という社会のほうが毎日気が抜けなくて大変ではないのかと思うのだけれど、ルールはあっても交渉しだいで抜け道がある社会のほうが居心地がいいということらしい。(このあたり、抽象的に書き飛ばし気味だけれど、先日メダンで聞いた日本人が巻き込まれた愉快でない事件のことが念頭にある。近く解決しそうな見通しだそうだけれど、まだ微妙な時期なので詳細は省略。)
研究者の性格が研究対象を決めるのか、それとも研究対象が研究者の性格を決めるのかという議論があるけれど、いずれにしろ日本人インドネシア政治学者である彼はインドネシアで居心地がとてもよさそうであることは確かだ。彼が書くインドネシア像が妙に味わい深いのも、そういう態度でインドネシア社会と関わっているからなのかもしれないと思った。