イはインドネシアのイ

プラザ・スナヤンの劇場に『アヤアヤ・チンタ』(Ayat-Ayat Cinta)を観に行った。以下、内容紹介の都合上、ストーリーを一部紹介することになるので未見のかたはご注意を。
(タイトルの日本語表記は「アヤット・アヤット・チンタ」とか「アヤッ・アヤッ・チンタ」とかになるんだろうけれど、ここでは気分で「アヤアヤ・チンタ」にした。日本で公開された場合、「ムスリムの恋」とかだったらちょっといやかも。それだったら「愛と青春のアズハル留学」あたりで。)


土曜日の午後2時過ぎの回で、ほぼ満席。お客のそのほとんどは若い男女で、女性の多くは被りもの系。後ろから見ると、黒髪の頭とカラフルな被り物の頭が交互に横に並んでいる。
上映前に「携帯電話を切りなさい」とか「録画してはいけません」とかいう注意が入り、それはその通りだと思っていたけれど、「上映中はおしゃべり禁止」というのは余計だと思った。お客の反応はインドネシアやマレーシアの劇場で映画を観る楽しみの1つなのに、それをやめろとは。そのせいもあるのか、観客のお行儀がよくて、いくつかのシーンで笑う程度だったのはちょっと残念。


さて、映画のストーリーは、とっても単純にまとめると次の2つ。「敬虔なムスリム男性でも巡りあわせによっては一夫多妻を行うこともある」「恋に落ちた女性は何をしでかすがわからないが、感情に振りまわされると本人だけでなくまわりにも大きな害を及ぼす」。こうやってまとめると実も蓋もない感じがするけれど、細部を取り払って残った感想はこれ。しばらく前に一夫多妻のために人気が急落したインドネシアの説教師がいたが、彼のことをかばった映画かと思ったほど。
これだとあんまり簡単すぎるのでちょっとだけあらすじを紹介。
第一幕は、ファハリが伴侶を見つけるまで。
エジプトのアズハル大学に留学しているインドネシア人学生のファハリ。勉強熱心で、宗教に対する知識と理解も十分にあり、指導力もあって、すべての人に優しく、そのため女性たちからモテまくる。でも本人はそんな女性たちの気持ちがまったくわからず、神が伴侶を与えてくれるはずと思っている。
ファハリに恋心を抱く女性は少なくとも4人登場するけれど、本筋との絡みで重要なのは、同じアパートに住むマリアと、途中で知り合うドイツ国籍の(トルコ系の?)アイシャの2人。
手首に十字架を彫っているマリアはムスリムではないが、コーランの章句が暗誦できるほどイスラム教にも関心を持っている。家は裕福ではないけれど知性が高く、ファハリが大学のレポートで困っていると手伝ってあげたりする。
マリアとはファハリがこのアパートに住むようになって以来の仲で、見ていて感じがよく、このままこの2人が結ばれてもおかしくない。ところがファハリはアイシャに出会う。アイシャは家柄がよく、裕福で、しかも(はじめは被りもののため目しか見せていないけれど)美貌の持ち主で、ファハリは一目惚れ?してアイシャと結婚する。(このあたり、ちょっと安易かも。劇中でも「会って十分に知り合っていないうちに結婚したのではないか」と問われているシーンもある。)
第二幕は、ファハリが2人の妻を得るまで。
アイシャと結婚して豪華なマンションに引越し、毎日車で送り迎えされる生活を送るようになるファハリ。でもマリアたちがそっけなくなり、どうしてなんだろうと悩むファハリ。
アイシャははじめ嫉妬深い妻として描かれるけれど、ファハリが女性を強姦した容疑で逮捕され、裁判にかけられると、容疑を晴らすためにファハリの知り合いを訪ねてまわり、それを通じてファハリのことを知るようになる。
ファハリの無罪を証明できるマリアは交通事故で昏睡状態になっていた。ファハリが無罪を勝ち取るにはマリアに法廷で証言してもらうしかない。アイシャの求めもあり、ファハリは昏睡状態のマリアを第二夫人にして目を覚ますように呼びかける。これによってマリアは目覚め、法廷で証言して、ファハリは無罪を勝ち取る。3人はアイシャの豪華なマンションで暮らし始める。
第三幕は、3人が一夫多妻の状況に悩み、いちおうの解決が見られるまで。ちょっとコミカルで、そして3人がそれぞれ悩み、「解決」に向かう。これについては省略。


観客が揃って大笑いしたのは3人で暮らすようになったあとの様子。アイシャとマリアからそれぞれ「今晩は私と一緒に寝て」と誘われ、困ったファハリが1人でソファーで寝るシーンなど。でもこれ、金持ちで美貌のアイシャと知性豊かなマリアという2人の女性をモノにして、その2人の間で困ったなあと言っている「モテる男はつらいよ」にしか見えなかった。
アイシャと結婚して車で送迎されるほどの生活を送るようになったファハリが、「男として世帯を持ったからには妻に養われているのはよくない、自分も仕事を探す」と突然言い出す。ファハリはイスラム教に通じていて、コーランの解釈から男女同権などについても深い洞察がある人物として描かれていたのに、どうしてこんなところで突然男らしさなんかを持ち出したのかやや違和感があった。でも観客は特に反応していなかった。男らしい立派な態度ということなのか、それとも男はそんなものだとよくわかっていて改めて驚くまでもないということか。


ちょっと気になったのが、舞台となったエジプトをどう見ているかということ。
ファハリがアイシャと出会ったのは、電車内で肌を露出しまくりのアメリカ人女性が熱さのせいで気分を悪くして、アイシャが席を譲ろうとすると、乗客のエジプト人男性が「アメリカ人は異教徒だ」「アメリカ人はムスリムをみなテロリスト扱いしている」「そんなアメリカ人に席を譲るな」と難癖をつけてきて、それに対してアッラーはすべての人間を平等に扱うように命じているというコーランの章句を引用してファハリがたしなめようとした一件がきっかけだった。ここにはアメリカに対するムスリムの批判が込められていると言えるかもしれないけれど、その言い方が紋切り型だ。エジプトのムスリムの頭の固さ(そしてそれに対するファハリの柔軟さ)を過度に強調しているようにしか見えない。
もう1つはエジプトの法廷シーン。まさかエジプトで本当にあんな裁判が行われているわけではないだろうけれど、見ていて目を疑った。法廷には折が作られ、そこに被告たちが閉じ込められたまま次々に裁判を受けていく。原告側関係者と被告側関係者は傍聴席の左右に分かれて座り、裁判長が何か言うたびに関係者がいきり立って相手側を指差して罵りあう。そして、法廷には報道カメラマンらしい人がたくさん入っていて、裁判官や証人の目の前をうろうろして、証言中の証人の写真を撮ったりしている。
逮捕されたファハリは名前で呼ばれず、取調べ中には警官に殴られながら「インドネシア人」と呼ばれ、勾留中も看守から「インドネシア人」と呼ばれている。このあたりは中東に出稼ぎに行ったインドネシア人労働者の経験を参考にしていたりするのだろうか。


さて、この映画が「ムスリムの恋愛」と言われているのはどうしてか。
インドネシア人の9割はムスリムなのだから、理屈から言えばインドネシアでは恋愛のおよそ9割が「ムスリムの恋愛」になるはず。でもそうは言わない。これは、インドネシアでは多くの人がムスリムではあるけれど、ムスリムとしての自己規定が必ずしも社会的に重要な位置づけではないためだろう。
この映画がわざわざ「ムスリムの恋愛」と言われるのは、1つには敬虔なムスリムうしの恋愛ということがあるのだろう。ファハリもアイシャも敬虔なイスラム教徒として描かれている。そしてもう1つには、ムスリムと結び付けられて理解されることが多い一夫多妻が扱われているためだろう。
この映画が一夫多妻に対して最終的にどういう描き方をしたかはここでは書かない。私個人としては、かなり違和感のある結末だった。日本人観客の多くもそういう印象受けるのではないかなとも思う。
それはともかく、「ムスリムの恋愛」と語られていることの意味を考えてみたい。今から約100年前に作られたイスラム同盟のことが参考になる。この団体の「イスラム」というのは、宗教としてのイスラム教というよりも、異民族で異教徒であるオランダ人に支配されている人々としての一体性として人々に理解されていた。イスラム同盟は略号のSIで人々に知られており、「I」はもちろんIslamの頭文字なのだけれど、人々の思いとしてはイスラム教徒としての一体性よりもオランダ領東インドのInlander(原住民)としての一体性の方が現実味があり、そしてそれが後にIndonesiaという名前を手に入れたと理解した方がよい。(このあたりについてもう少し詳しく知りたい人は、プラムディヤ著(押川典昭訳)『ガラスの家』(めこん、2007年)を買って、それについてくる小冊子の深見純生さんの記事を読むべし。)
この状況は今もそれほど変わっていないのかもしれない。インドネシア社会でイスラム教の要素が増えてきて、イスラム教の影響力が増しているかに見えるけれど、それは人々に本当に宗教としてのイスラム教として捉えられているのだろうか。そうではなく、実はインドネシア性の一部として理解されているのではないのか。
『アヤアヤ・チンタ』では、ファハリが無罪を勝ち取って「アッラーは偉大なり、インドネシア万歳」と叫んでいるけれど、これは喜びの感情を多くの人たちと共有しようとしたときにインドネシアの一般の人たちはこの2つの言い方しか知らないからということではないだろうか。インドネシアムスリムにとって、いまなお、イはイスラム教のイではなくインドネシアのイなのかもしれない。