スルタンの杖

『すばる』5月号に掲載されている小説「スルタンの杖」を読んだ。


タイトルは、「スルタンの杖を洗った水で水浴びしたものは特別な能力を持つ」というモスクの番人ハッサン老人の話に由来している。アチェ王国が最盛期を迎えた頃のスルタンであるイスカンダル・ムダの杖が伝えられており、それを守っているのがハッサン老人だ。
物語のなかでファフミはスルタンの杖を洗った水で水浴びしている。ファフミはどんな特別な能力を手に入れたのか。
ファフミの「特別な能力」について触れられている部分では、地震直後に何が起こったかわからず人々が戸惑っているとき、これは地球が壊れた音で、これまで経験したことのない不気味で危険なことが起きようとしているとわかる力として描かれている。わかりやすく言えば予知能力のようなものということになる。おそらく著者の意図もそのあたりにあるのだろう。
しかし、スルタンの杖を洗った水で水浴びしたファフミは、著者の思惑を超えて、もっと別の特別な能力を得たようにも読める。
ファフリが子どものころにスルタンの杖で水浴びした場面を読むと、ファフリは水浴びの後に家に帰って絵を描き、「やっと書けるようになった」文字でアチェの歴史物語を書き付けている。ここでは、特別な能力というのが絵を描いたり字を書いたりすることと関係していることが暗示されていないだろうか。それは自分の内面を表現する能力であり、そしてそれによって外の世界とつながる能力でもある。別の場面では、独立の気運が高まるアチェで、ファフリが舗装道路にアチェのかつての英雄たちの絵を描き、「アチェ独立万歳!」と書き添えて人々の歓声を集めている。
アチェはインド洋世界と東南アジア世界の交わりの地にあり、世界の人々とつながることがアチェの繁栄の礎であり続けた。だからこそ、アチェの人々にとって外の世界とつながる能力は大切であり、そのため自分の内面を表現することも大切だ。そしてそれをもたらすのが「水」であるとは、繁栄をもたらすのも災いをもたらすのも海だったという意味で、この物語は実にうまくできている。


小説の中で気になった点が2つあった。
1つはあまり大きな問題ではないが、メガワティ・スカルノ大統領(115ページ)とあり、さすがに仮名ではないだろうからメガワティ・スカルノプトリ大統領とすべきだったのではないか。
もう1つは「1976年にアチェが独立を宣言すると」(109ページ)という箇所で、これは「アチェの独立を宣言すると」か「GAMが独立を宣言すると」であるはずだ。1976年にはアチェ内の一部の勢力であるGAMアチェの独立を宣言したのであって、アチェが総意によって独立を宣言したわけではない。「アチェが独立を宣言すると」としてしまうと、アチェの独立を宣言したGAMとそれを押さえつけようとする中央政府インドネシア政府)との間で武力闘争になり、両者の間で多くの一般住民が暴力の犠牲になったという構図が見えなくなってしまい、アチェ中央政府とかアチェインドネシアとかいった図式になってしまう。


もっとも、著者は意図的にそうしたのかもしれないという気もする。
この小説は、これまでアチェについて語られ、理解されてきた前提(たとえば、敬虔なイスラム教徒で、独立と文化を守るために勇敢に戦ってきた人々で、オランダからの独立戦争にもよく戦い、オランダからの独立後にインドネシア共和国の一部として組み込まれると反乱を起こし、天然ガスによる収入が地元に還元されないために分離独立を訴えたことなど)を下敷きにしながらも、これまでアチェが描かれてきたのとは違う方法でアチェを描こうとしているように感じられるためだ。
そのための仕掛けの1つが、アチェとそれ以外のインドネシアの関係を男女あるいは夫婦に重ねていることだ。ファフミの姉ナスルミはろくでもない夫と暮らしているが、夫と離婚できない。それは、アチェで適用されているイスラム法では妻からは離婚できないためだ。
小説の中では「結婚した女は夫の所有物になるようなものだ」と表現されているけれど、ここに重ねあわされているのはインドネシアという「所帯」の中に置かれたアチェにほかならない。オランダから独立したとき、アチェは他の地域と一緒にインドネシア共和国という「所帯」を持った。しかし、後にその所帯ではうまくいかないとわかっても、アチェの側から「離婚」することは認められない。
このように、インドネシア共和国=国軍兵士=夫、アチェ=地元住民=妻という図式に重ねて、ナスルミの日々の「たたかい」を描くことを通じてアチェの状況を間接的に描こうとしている。


そこで描かれているナスルミは、武器を持って勇ましくアチェの独立を叫ぶ男たちの戦いとは違い、アチェが独立するかどうかはどちらでもいい。それよりも、夫や国軍兵士や業界の幹部たちなど、日常的に自分と関わるさまざまな人たちとの間で小さな権力関係の網目の中に置かれていて、そのなかでどう切り盛りしていくか日々格闘している。
物語の後半でナスルミはアチェの独立派勢力と近づいていくが、これも決してアチェの独立に関心を寄せるようになったためではなく、身のまわりの権力者である国軍兵士や政府に対して毅然とした態度をとるうちに反政府勢力と見られるようになったからにすぎない。ナスルミ自身、政府に対して批判的であることの理由を、「夫よりずっと大きな権力に立ち向かうこと」と理解しており、それは彼女なりのやり方で夫から自由になることだった。ろくでなしの夫も分離独立するかという天下国家も、自分を取り巻く権力関係とどう折り合いをつけるかという点ではナスルミにとって同列におかれている。


このように、理念を掲げて分離独立を求める政治活動家を描くのではなく、かといって紛争のさなかに政治活動とは全く無縁の人々の暮らしがありましたという話にするのでもなく、政治活動とは無縁に暮らしているつもりでも政治状況に巻き込まれて反政府派とされてしまうナスルミの物語を描くことで、これまで何度も描かれてきたアチェの独立物語とは異なった物語を描こうとしているように思われる。
このようなナスルミに対し、深く考えもせずに「アチェ独立万歳」などと落書きしてしまうファフミがどのように切り結んでいくのか。物語はここからさらに大きく転換していくことになる。この先が読めないのはとても残念だ。「スルタンの杖」の続編が期待される。