マレーシアのニューメディア

マレーシアの学会などで聞いた話の続き。
いくつか興味深い話題が複数のパネルで議論されていた。1つは女性の結婚について。マレーシアで結婚しない女性が増えているらしい。他方でというか同時にというか、未婚の母親になっている人も増えているらしく、それぞれそれも調査研究の対象になっていた。


もう1つはニューメディア。今年3月のマレーシアの選挙に大きな影響を与えたといわれているブログや携帯電話のショートメッセージ(SMS)など、ニューメディアあるいはオルタナティブ・メディアについての話題が複数のパネルで議論されていた。
いくつかまわって話を聞いて、それなりにおもしろかったけれど、物足りない感じも残った。ニューメディアについてこの学会で聞いた話はたいていのことをもう知っていたからだろう。といっても私が先見の明をもってこの分野の勉強をしていたわけではない。実はこの分野は日本での研究が進んでいて、日本で研究会に何回か出ていたのでおおよその様子がわかっていた。今回参加した学会ではそれ以上の話が出てこなかったということだ。
日本にはマレーシアのインターネットやブログの発展に早くから目を付けていた研究者がいる。まだ大学院生で、これからどの道で活躍するか可能性を狭めるのはどうかと思うのでここで名前は挙げないけれど、日本のマレーシア研究者や比較政治研究者の間では「マレーシアのオルタナティブ・メディア研究と言えばあの人」というぐらいよく知られている。
研究を始めたばかりのころは、先行の研究もデータも少なかったり、まわりの人も研究の意義が十分にわからなかったりで、不安や不満を抱いたこともあったかもしれない。それでも、適切な指導が受けられる体制がないとか、資料を手に入れるのに苦労したとか、世間から適切に評価されないとかいった怨み言を一切言わずに研究を進めてきて、ようやく現実が追い付いてきたために改めて注目を集めている。何よりもフットワークが軽い。原稿執筆が速いだけでなく、新しいアイデアがどんどん湧いてくるし、ちょっとやってみてうまくいかなくてもあきらめずに別の角度から再挑戦を試みたりと、フットワークは軽いけれどもなかなかあきらめないところが好印象を持てる。


話はそれるが、これと対照に、学会や研究会で自分の発表へのコメントが悪いと腹を立てる人がいる。学会や研究会で「意義がわかりにくい」とか「位置付けてほしい」とかコメントされると、研究内容にはコメントしないで周辺的なことばかりコメントすると言って腹を立てる人がいる。でも、コメントする側からすれば、わざわざ手をあげて意義や位置づけを求める発言をするのは、発表を聞いただけではよくわからなかったけれど、自分の研究とつなげて考えてみたいからつなげ方のヒントをもらいたいという好意的な思いの表れだ。そりゃまあ自分が最先端の研究をしているのであればまわりのコメントも多少ピント外れになることもあるだろうけれど、つなげようと差し伸べた手を拒絶するのならわざわざ学会になど参加せず、自分の思う方法で研究内容を発表すればいい。
学校や教師に過剰な要求をしてそれを自分たちの権利だと考えている親たちの話や、お店に過剰なクレームを付けるお客の話など、権利を振りかざして過度のサービスを求める人たちの話を聞くと、研究者も似たようなものだと思ってしまう。
似たようなものといっても、学会運営は給料をもらってやっているわけではない。学会運営は、自分が所属する場を有意義なものにしたい、それを通じて自分の存在や活動を有意義なものにしたいという思いで支えていると言っていい。他の仕事に追われて学会運営を後まわしにせざるを得ないときもある。そんなときは会員に申し訳ないと思うが、会費を払っているのだから会員の権利として過度のクレームをつけてくる人もいて、そういう人を相手にすると消耗する。なかには、学会で発表した時に期待していたようなコメントが来なかったからと腹を立てて苦情を学会事務局にメールで書いてくる人もいる。
最近ではブログがあるので、どこそこの学会に参加したらこんなひどい扱いを受けたと書いたりする場ができたため、学会事務局に直接メールを書いてくることは少なくなった。ブログが持つ影響力をわかって批判しているのならいいけれど、運営する人がいなくなってその学会の活動が停滞したら、その人が研究発表する場が減るということをわかっているのだろうかと逆に心配になる。


ちょっと話は飛ぶけれど、政府批判はたいていの国でもあるし、週刊誌などを通じて政治家に「やめろ」と書くのも珍しいことではなく、もちろん日本も例外ではない。でも、その政治家が辞めたら誰が後を継ぐのかまで考えて「やめろ」と言うのは日本には少ない気がする。とにかく今の首相はやめろ、その後任は与党が自分たちで考えろ、ということだろうか。その背景には、お上は自分たちとは違う立場の存在なので、お上のなかで誰を選ぶかは自分たちとは関係ないという考えがあるような気がする。最近は、上で書いたように、自分たちの権利だからというロジックも加わっているようだ。
マレーシアの人々が首相にやめろと言ったとき、後任が誰になるのかは当然考えている。誰かを首相にして大きな決定権を与えなければならないのだから、可能な選択肢の中から最善の選択をするしかない。ある人物によくないところがあるとわかっていても、他の候補と比べて、それで行かなければならないと決断することになる。そうでなければ自分がやるしかない。
ニューメディアに新しい可能性があることは事実だし、いまのマレーシアでは旧体制の象徴である与党連合BNに対する批判勢力がニューメディアをうまく使っているのでニューメディアは自由や透明性・公開性などの積極的な価値観と結び付けられてもてはやされているけれど、ニューメディアが無制限に使われたら、場そのものが壊れる可能性があることも考えたほうがいい。ニューメディアを積極的に利用する人は、そうなったときに自分がそれを引き受ける覚悟がどれだけあるのかを自覚して利用することが求められるだろう。クチンの学会ではそういうところの話まで聞けなかったので物足りない気持ちになったのだと思う。