地域研究は世の中に役立つか

世の中、地域研究がはやりらしい。国内の学問の世界では、誰も彼もが地域研究と言うようになった感がある。私も地域研究の業界に属しているので、地域研究の売り出しのために動員されることもある。あの手この手で地域研究を売り出そうとしている人たちにとって、「地域研究とは何か」「どうすれば地域研究ができるのか」なんていう問いはあまり重要ではなく、極端に言えば、地域研究と言えば大型プロジェクトが組めて予算がたくさんとれるならそれでいいということでしかないんじゃないかと思うこともある。でも、それはそれでありだろうと思う。他人がやっていることに「それは地域研究ではない」と言い出したら、それこそ地域研究と最もかけ離れた態度になる。

地域研究の売り出しのため、最近では「地域研究はどのように世の中に役に立つか」というお題が出されている。たぶん、それなりの理由をつけると、どこかから大きな額の予算がつくという話になっているんだろう。

「地域研究はどのように世の中に役に立つか」。大学や大学院に入ったときから地域研究という学問分野がすでにあり、研究者となるための修行を地域研究によって行ってきた世代である自分たちにとって、この問題ははじめから逆を向いている。研究者という立場がほしかったから研究の道を進んだのではなく、世の中とどう関わるかを考えたとき、いくつもある進路のうち相対的に自分に向いていそうな道を選んだ結果が研究を通じて関わることだった。世の中との関わり方の1つのかたちが地域研究なのであって、もともと世の中との関わりがない「研究のための研究」の1つとして地域研究があるわけではない。だから、いまさら「地域研究はどのように世の中に役に立つか」と言われても面喰らうだけだ。

私たちは、学生の頃から比較的簡単に海外旅行に行けるし、海外に行かなくても身のまわりに異文化がある環境で育った世代だ。学生時代など若いうちに、旅行やホームステイやその他いろいろな機会で、自分たちが慣れ親しんだ社会以外の地域社会のことを知り、あるいはそこに住む人たちと出会い、親密な付き合いをする機会を持つことができた。親しくなった後で、どちらかが帰国するなど何らかの形で一時的な別れが来るけれど、その後でもその人たちとともに生きたいという思いが残った。通信手段が発達したために連絡も容易になり、多少離れていても一生の別れという気にはならずに済む。その後、企業や官庁に勤めるのか大学に残るのか家庭を築くのかそれらを組み合わせるのかなど進路はいろいろあるけれど、どの進路を取ろうとも、そこでできることをすることであの友達たちとともに生きることができると考えた。私は大学で研究する道を選んだけれど、大学で定職に就くことが目的なのではなく、あの友達たちと一緒に生きているという実感を得ることが目的で、だから大学を出た後も官公庁を含めていろいろなところで勤め、現在は大学関係で勤めるというめぐりあわせになっている。

そんなわけで、「地域研究は世の中に役に立つのか」と尋ねられると戸惑う。ただし、今日の本題はそれではない。地域研究が世の中に役立つかどうかを気にするのもけっこうだけれど、地域研究は地域研究を行っている人たちにとっても役立っているのか、あるいは魂の救いになっているのか、ということがとても気になる。

この点について、地域研究を掲げる大学や大学院で教えている先生方は大丈夫なんだろうか。自分たちが地域研究を教える立場にいることを自覚して、そのために必要なことをしているんだろうか。ずいぶん偉そうな言い方になってしまうけれど、このことを問わずにいられない。

「地域研究とは何ですか」と尋ねられて、「自分の専門が政治学だと言うと、他の国・地域の政治の研究書を読まなければならなくなる。それよりは自分が好きな地域の小説や研究書を読む方が好きだ。だから地域研究だと名乗っている」と答えた偉い先生がいた。「逃げ場としての地域研究」ということか。「自分がしていることを他人が何と呼ぼうとかまわない、自分で楽しいことをやるだけだ」とも言った。素直に言えば、その気持ちには共感できる。確かに、地域研究があるべき姿が厳格に決められていたらやる気がなくなってしまうだろう。でも、自分が学生を指導する立場だったとしてもそんなことを言っていていいのか。教師は学生の人生を大きく左右し得る立場にある。すでに研究者としても職業人としても確固とした立場を築いた教師にとってみれば「自分は楽しいことをやるだけだ」と言っていれば楽しいだろうが、その人の指導を受けて研究者として職業人として自分を確立させなければならない学生はどうすればいいのか。「おもしろい」に振りまわされてしまわないか。

地域研究はまだまだ学問分野として十分に確立されていない。何が地域研究なのかはっきりした答えはどこにもない。地域研究はどうやってやればいいのか。その成果である論文はどう書けばいいのか。学会発表はどうすればいいのか。地域研究の方法論は確立されていないため、これらの問いに直ちに答えることはできない。すでに立場を手にして「自分がおもしろいことをやればいい」と言っていれば済む人はいいが、そうでない人たちは、地域研究をめぐってとても混乱している。他人に評価されないと先に進めない状況で、どうすれば評価されるかを気にしている。ある先生が「これがおもしろい」と言えばそれをやり、別の先生が「これがおもしろい」と言えばそれをやってみる。それを繰り返しているうちに、自分で自分の研究の何がおもしろいのかはわからないけれど、学会発表や論文執筆の技術だけは身に付き、何となく形になってくる。論文を読ませてもらうと、日本語はとてもうまく、文章としてはきちんとしているのだけれど、でも細かいデータと当たり障りのない結論があるだけで、書き手が本当は何を訴えたいのかが全然見えてこない論文ばかりだったりする。そんな論文を集めて束ねても全体で博士論文とするためのまとまりは作れない。自分で自分の研究の何が面白いのかわからないから、全体をどの方向でまとめればいいのかがわからない。

学術研究を批判的に見る鋭い目がある学生は、自分の研究も鋭い目で見ることになり、そのままでは博士論文としてまとまらないことが見えてしまう。それがわかったうえでどう誤魔化すかも大事なのに、まじめすぎるとそのことに悩み続け、なかには悩み疲れてしまう人もいる。研究を続けるにしてもいろいろなコースがあるだろうに、あるいは研究とは別のあり方で対象と関わる道もいくらでも見つけられるだろうに、研究の道を閉ざすことと自分の人生を閉ざすことを重ねてしまう人が次々に出てくる。
これと別に、古典的な学術研究に対するイメージが十分に備わっていない学生には、学会で自分が調べた細かい内容を発表して、研究の位置づけがわからないという質問やコメントを受けて憤慨する人がいる。大学を卒業したばかりの大学院生なら自分が未熟だと思って自分のやり方を変えようとするので対応可能だけれど、社会や家庭の現場で長く経験を積んでから大学院に参加するようになった人たちの中には、自分の経験がどうして受け入れられないのかと憤ってしまい、対話ができなくなる事態に発展することもある。

これを一度に全部解決するのは難しいので、まずは過度にまじめな学生たちへ。とても慕っている先生がいたとしても、その先生に認められることを唯一の目標にするのではなく、自分が何をおもしろいと思っているかを考えて、自分の思いに誠実な研究をしてはどうだろうか。そうすると、研究発表するたびに批判されるかもしれないし、論文を学会誌に投稿しても査読者から的外れなコメントを食らうかもしれない。でも、偉い先生たちが喜ぶような研究発表ばかりしていると、自分が本当は何を面白がっているのかわからなくなるし、先生から離れたときに自分1人でどんな論文を書いていいのかわからなくなる。下手をすると、その偉い先生が他の研究者を馬鹿にしている態度をとると、学生たちもその研究者たちを馬鹿にして見るようになる。

ゼミや学会で特定の人にバカだアホウだと思われたって、それはそれでいいじゃないか。自分は何がおもしろいと思ったのかをきちんと見つめて、それがなるべく多くの人に伝わるように言語化する努力をして、その課題に誠実に取り組めばいい。時間はかかるかもしれないけれど、きっと心を打つ論文が、読んで「泣ける」論文が書けるようになる。どうせ今の時代はどんなに優秀でも研究者として定職につけるまで時間がかかるものなのだから、研究者としての修業期間に多少時間がかかってもいいじゃないか。身近な特定の人が面白がるかどうかではなく、自分がその問題にこだわるのはなぜなのかをよくよく考えて、それをなるべく多くの人が理解できるように言葉で説明するということに尽きる。大学人になることではなく、自分が関心を持った人たちと一緒に生きることが目的だったのならば(「一緒に生きる」とは同時代に生きることとは限らない)、その努力はきっと報われるはずだ。

ついでに、もう一方の、自分が調べたことを細かく学会で発表したのに「位置付けは何か」という関係ない質問しかされないと憤慨している人たちへ。せっかく自分がいろいろ調べて発表したのに、門外漢がとんちんかんにも「位置付けは何か」などと質問してきて何事か、と思っているかもしれない。でも、本当は逆で、研究者として自分と対等な立場にあると扱ってくれたからこそ、地域や時代や分野が違っても質問してくれているのだから、まじめに聞いた方がいい。個別の事例についてはよくわかったけれど、そこから得られた知見を他の地域や時代に適用するとしたらどのような方向性があるかを考えて教えてほしいという注文だったりする。くだらない発表だと思えば放っておけばいい。わざわざ質問やコメントをして関わりを持とうとしてくれているのだから、「門外漢がとんちんかんな質問をしてきた」などと言わずに素直に聞いた方がいい。

自分はただ自分の気が向くままに研究しているだけなので、その邪魔をしないでほしい、責めないでほしいなどと言う人は、学会で発表することの意味をもう一度考えた方がいい。学会というのは、極端に言えば、学者が集まって学説を作りだす場だ。誰かが学説の候補を発表して、それをみんなでいろいろな角度から議論して、学説として認めていいか検討する。この検討に耐えて残ったのが学説として認められる。だから、学会で発表するということは、その発表内容を学説として認めてよいか議論する場に自分を置いたということになる。せっかく誰もまだ知らないことを発表してやったのにみんな的外れな文句を言ってきてけしからん、と思うようなら学会で発表しようと思わない方がいい。学会は他人の研究を聞いて褒める人が集まるところではない。

自分の研究がまとまらないと悩み疲れている人も、自分の研究が認められずに「位置付けは何か」と言われて憤慨している人も、悩みのおおもとは共通しているかもしれない。研究することに対して特定のイメージが強くなりすぎていて、それ以外の状況に対応しきれていないのではないか。それ以外の状況というのは、多かれ少なかれ研究者を志す人がみんな通ってきた道であるはずだけれど、そのことを教えてくれる先生や先輩が身近にいないのかもしれない。そういう状況に置かれて迷っている人が全国の大学にたくさんいるということだろう。「地域研究は世の中にどう役立つか」なんて言っている場合じゃあないんじゃないのか。自分たちのすぐそばでさまよっている魂が救えずに、世の中に役立つも何もない。この問題を直ちに解決する方法はないかもしれないけれど、1つの方法として、そして自分に関われる範囲として、ここで書いたことを意識した上で地域研究方法論を語る場を作ることには意味があるはずだと思いたい。