シンガポールで見つけた本

男性モデルのカレンダー

マリナ・スクエアのポピュラー書店で、入口すぐのところに男性モデルのカレンダーが並べられて人目を引いていた(写真)。ビキニパンツの下のからだの形がわかるかなりきわどいもの。カレンダーなので12人の写真が載っているけれど、なかにはマレー人らしい人もいる。シンガポールでもここまでできるのかとちょっと感心した。


シンガポールで手に入れた本のうち「同志」関係のもの。


欧陽文風『思考』(Seashore, 2008)
欧陽文風『批判美国』(Seashore, 2008)
『思考』は、権威によらない批判的な思考の具体例を提示したもの。念頭に置かれているのはキリスト教の権威。歴史上、キリスト教の権威によって誤りとされながらも後の世になって正当と認められたものとして天動説と奴隷解放の2つを挙げ、同性愛の容認が3つ目になるだろうと実に力強く説いている。
本書の大半は、この主張に批判的な意見や態度にどのようなものがあり、それらにどのように反駁しうるかを1つ1つ挙げている。おそらく著者はこれまでいろいろなところでいろいろな意見や態度を受けて、それに1つ1つ対応してきたということなのだろう。「実践版中国語の論争術」としても役立つかも。
『批判美国』は、第1部「アメリカとテロリズム」と第2部「アメリカと宗教原理主義」からなる米国批判の書。
著者の欧陽文風については、ちょうどこの2冊を見つけたのと同じころ、別のところでも紹介されていた。詳しくはそちらを。
http://d.hatena.ne.jp/baatmui/20090104#1231087396


Johann S. Lee. Quiet Time. (Cannon, 2008)
しばらく前にここで紹介したJohann S. Leeの最新作。前作は読まずに積んだまま。
マレーシアの政局と同性愛 - ジャカルタ深読み日記


Ng Yi-Sheng. SQ21: Singapore Queers in the 21st Century. (Oogacharga, 2006)
シンガポールの同性愛の青年男女がカミングアウトの様子を語ったもの。第1章から1人ずつカミングアウトの様子が紹介されている。最終章である第16章のタイトルは「あなた自身」で、その内容は白紙。
同性愛と言っても恋愛とか性愛とかに限られず、一緒に暮らす相手が同性であるというイメージでとらえている人もいる。ほとんどの人にも共通しているのは親に伝えたときの様子。嘆かれたり、叱られたり、見棄てられたり。


Tom Boellstorff. The Gay Archipelago: Sexuality and Nation in Indonesia. (Princeton UP, 2005)
インドネシアは国民形成の成功例と言われることが多い。ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』を書けたのもの、そしてそれがナショナリズムを美しく描いていることも、アンダーソンがインドネシアをフィールドとしていたからだ、という言い方もある。
確かにインドネシアは、もともと多民族・多言語・多宗教の人々が混住する地域に、植民地統治の都合で勝手にくくられた領域がつくられ、そこに住む人々が「われわれ」意識を育て、1つの民族としてインドネシア民族という自覚を持つに至り、しかもオランダによる植民地支配をはねのけて民族自決を勝ち取った事例だとされている。
ただし、そのようなインドネシアナショナリズム理解は、その国家を受け継いだスハルト大統領が軍の力を背景に国家による社会の管理を強めた権威主義体制を敷いたことをナショナリズムとの関係でどう捉えるのかとか、独立時にインドネシア民族に含まれなかった中華系住民をどう捉えるのかとか、1998年のスハルト大統領の失脚以降にインドネシア各地で見られる地方分権や一部地域の分離主義の動きをどう捉えるのかとか、さらにはイスラム教を掲げて自己正当化をはかるテロリストたちをどう捉えるのかなどの問題を抱えることになった。

1つの答えは、ナショナリズムは初めから悪いという態度で、だから独立時のナショナリズムまでさかのぼってダメだという。でも、欧米の植民地支配に抵抗して自分たちの独立を勝ち取ったインドネシアナショナリズムをあえて否定する意義があると考える人はあまりいない。
もう1つの答えは、独立時のナショナリズムは正しいナショナリズムだけれど、その後に別の要素が入ったためにナショナリズムが不適切な形で表出することになったとするもの。何が悪者かと言えば、中国系住民にしたり、軍人にしたり、アメリカにしたり、それぞれ。問題を外部に求めればインドネシアナショナリズムの純度は保たれるので、インドネシア独立への思い入れを守ったままで、独立後の「よろしくない」現状を嘆き、批判することができる。でも、そう言うことで気持ちはすっきりするかもしれないけれど、外部のせいにするのでは問題の解決につながらない。(というか、その考えの延長上で問題の「解決」をはかるとすれば、異民族や外国を排斥したり攻撃したりすることになってしまうはずだ。)

じゃあどう考えるか。独立を勝ち取ったことは肯定的に評価すべきとして、それを実力行使で腕力比べしてしまったところ(あるいは、本当はそうではなかったのにそうだと語ってしまっているところ)が問題なのかもしれない。インドネシア独立記念日は8月17日だとされているが、これは1945年8月17日に独立が宣言されたため。これに反対するオランダの攻撃を受けたりして、インドネシアがオランダから主権を譲渡されて独立を達成するのは実は1949年12月27日のこと。そこに至るには武力闘争だけでなく外交交渉も重要な役割を果たしたのだけれど、そのことはあんまり語られず、どうしても「力づく」という話が前に出てしまう。
インドネシア社会を「力づくの神話」から解放するにはいろいろな方面からのアプローチがあるはずだけれど、その1つがゲイなのかもしれない。(もう1つ挙げるならばプラナカン=現地生まれ=混血者。これについては別の機会に。)