プラナカン博物館

第10展示室のファリシュ・ノル

シンガポールに1年前にオープンしたというプラナカン博物館に行ってみた。あまり期待していなかったのだけれど、予想に反して知的興奮を与えるおもしろい作りになっていた。
「プラナカン」はいろいろな意味を持つ。よくある理解だと「現地生まれの華人」や「現地化した華人」になる。これだったら博物館は壷や服を並べるだけであまりおもしろくないだろうなと思っていたら、博物館の中で展示室ごとにプラナカンの解釈が違っていた。博物館全体としては統合が悪いということになるだろうけれど、その結果としてとても興味深い博物館になっていた。


まずはプラナカンについて。マレー・インドネシア語でperanakanと書く。anak(子)から派生した語だが、この単語が実際に使われるときは、主によその世界から来た人(一般に男性)が地元の人(女性)との間にもうけた子のことを指す。日本語にするなら、文脈に応じて「現地生まれ」とか「混血者」とかいうことになる。一方の親を通じて外世界との関わりを持ちつつ、もう一方の親を通じて地元社会との関わりも持つため、一般の地元住民に比べて経済的な地位を得やすいが、そのためにときに地元住民から妬まれ、「よそ者」として排斥の対象にされたりもする。
理屈の上では、民族性によらず、よその世界のどこから来た人でもプラナカンとなり得る。だから日系のプラナカンがあったとしても不思議なことではない。ただし、一般にプラナカンと言ったときには、歴史的に実際に存在し、しかも数が比較的多いものがイメージされることになる。
かつてはインド系のプラナカンという言い方もされたりしていたけれど、東南アジアに中国系の移民が多くなると、「プラナカン」はもっぱら「現地化された華人」を指す言葉として使われるようになった。そのため、プラナカンを華語で「土生華人」と訳すこともある。「土生」というのは「現地生まれ」ということだから、中国生まれで現地化した人が含まれないなどのちょっとした問題はあるんだけど、まあ漠然とそう理解しておいてだいたい間違いではないという程度の理解だろう。
ところで、シンガポールでもマレーシアでもインドネシアでも、独立の過程で民族性を純化する力が働いたため、この地域で多くの中国系住民は「純粋」な華人であることが求められるようになった。そのため、東南アジアの中華系住民は、特に20世紀に入ると、中国性を維持した「純粋」な華人と、中国性が薄れて現地性が強い「プラナカン」の2つに分けられるという見方が生まれた。この見方に従えば、プラナカンとは、もともと中国人だったのに現地人と通婚した子孫であって、中国語はわからないかマレー語や英語まじりのものになっていたり、服装もマレー人風のものになっていたり、信仰の形態や冠婚葬祭の儀礼も現地的な要素が含まれていたりして、本来の中国人性が薄れている人々と評価されることになる。しかも、独立後にはプラナカンの子どもたちは華人として暮らすことが求められたため、プラナカンとしての生活様式を維持し、プラナカンとしてのアイデンティティを積極的にもつ人はとても少なくなった。
さて、プラナカン博物館は第1展示室から第10展示室まであるが、第2展示室から第9展示室まではプラナカンをこのように「土生華人」と捉えた上での展示になっている。そのため、プラナカンたちがかつて使っていた家財道具や衣装や儀礼の道具を展示したり、プラナカンの会話の録音を聞かせていくつもの言葉の単語が混ざっていることを示したりしている。
これは、本来は複数の世界にまたがって境界を越えた存在であるはずのプラナカンを、あたかも特定の文化的特徴を持ったプラナカンという1つの「民族」であるかのように扱っているし、しかもプラナカンを過去の人々として扱っていることから、いわばプラナカンを標本のようにピン止めしているものでしかない。個別の展示を見てなるほど興味深いなと思うことはあるけれど、それはそれだけ。これを見にきたシンガポール人たちににとっても、いまの自分たちと違う人々のことを珍しそうに見る機会にしかならないだろう。


でも、上で書いたように、プラナカンにはいろいろな解釈がある。東南アジアでは、独立の過程で民族性の純化が求められ、マレー人はマレー人らしく、華人華人らしく、インド人はインド人らしくと言われ続けてきたけれど、でもよく考えてみればシンガポール(あるいはマレーシアやインドネシアでも同じ)の地元文化を十分に受け入れており、華人と言っても中国の中国人と同じでないし、インド人と言ってもインドのインド人と同じわけではない。そう考えるならば、東南アジアに住む人々は、いま生きている自分たち自身が、みんな何らかのプラナカンということになる。
これを自覚させる仕掛けがプラナカン博物館の第1展示室だ。シンガポールのいろいろな人の顔写真を並べて、それぞれの名前と、何のプラナカンで、そして自分がプラナカンであることをどう思うかが書いてある。ディック・リーのような「大物」プラナカンもいるけれど(ディック・リーのお父さんはプラナカン協会の会長だったはず)、一般のシンガポール人たちに自分たちをプラナカンとして語らせている。半ば無理やりとはいえ、自分たちをプラナカンとして目覚めさせ、プラナカンとしてカミングアウトさせているのがこの展示室だということになる。しかも、ここでプラナカンは中国系に限られず、マレー系やインド系やユーラシア人(ヨーロッパ系プラナカン)も含まれている。
さらに、中国系のプラナカンでも、どのようなプラナカンと名乗るかはそれぞれ自分の意思に任されていて、ある人は福建系プラナカン、別の人はマラッカ・プラナカンと名乗ったりしている。マラッカの中国系なら福建系だろう、マラッカ系と福建系はどう違うのかと言いたくなるかもしれない。でも、プラナカン概念ではその人の客観的な標識を並べることが重要なのではなくて、自分が「地元」と「よその世界」にそれぞれどう位置づけられているかを自覚して名乗ることが重要なのだから、どのプラナカンか回答がバラバラであってもどれ自体は問題ない。いずれにしろ、どのようなプラナカンであれ、みんな自分のことをプラナカンと認識しているということがポイントだ。
第1展示室のプラナカンたちの顔写真は、部屋の三方の壁に掲げられて観客をぐるっと取り囲み、あたかもお客に「あなたは何のプラナカンですか」と問いかけているようだ。ここでは、訪問したシンガポール人(マレーシア人でもインドネシア人でもいいし、想像力をちょっとたくましくすれば日本人でもいい)が、自分自身がプラナカンなのだと思わされるという仕掛けになっている。これがすごい。
そして3階の第10展示室。3面鏡のようにセットされたビデオ画面にいろいろな人が出てきて、プラナカンであることについてそれぞれの思いを語っている。ビデオの音声が聞き取りにくいのがやや難だけれど、よく聞いていると、華人だから華語を勉強しなくちゃいけなくて大変だとか、プラナカン性を消極的に捉えて発言している人もいる。それに対して、登場人物の1人であるファリシュ・ノル(Farish Noor。ファリシュ・ヌルかな?)がただちに画面に現われて別の意見をかぶせて、プラナカンの積極的な可能性を探るように議論を方向付けていく。
ファリシュ・ノルは一般にはマレー人と見られているけれど、ここではジャウィ・プラナカンと名乗り、民族別に区切った現在の社会とは異なるプラナカン的な社会の在り方を説いている。プラナカンは中華系に限らないと何度もしつこく繰り返して強調する第1展示室と第10展示室は、プラナカンを「土生華人」とする他の展示室とあまりに異なった空間になっている。この2つだけファリシュ・ノルが企画したのではないかと思うほど。


では、プラナカンにどんな展望があるのか。混血に関わる概念には、他の地域にクレオールメスティソなどがある。プラナカンの特徴の1つは、プラナカンがいる社会はホスト社会の存在を前提としていて、プラナカンはその社会で決してそれ自体で主流派にはなれないと自覚している人々で、だからこそ主流派を巻き込んだ形で集合的アイデンティティの再編を求める可能性を秘めていることだと言える。
東南アジア各国はナショナリズムによって(この場合、強固な民族意識をもって異民族を排斥するという意味)独立を達成したという語り方が定説のようになっているけれど、独立に至る過程をよくよく調べてみると、東南アジアのどの地域でも、表舞台にはあまり出てこないけれど、民族的・文化的な混血者などさまざまなプラナカンが重要な役割を果たしている。
これまでナショナリズムで語ってきた東南アジアの現代史を、プラナカンに焦点を当てて見直してみることには大きな意義がある。卒論や修論のテーマにもいい。そして、それを単に歴史の解釈の問題で終わらせるのではなく、今の東南アジアに生きる人たちが自分たちを個別の民族としてではなく積極的にプラナカンとして意識するようになることによってこそ、新しい社会への展望が開けるはずだ。そう考えると、東南アジアの人々にプラナカンという自覚を与えるという意味で、プラナカン博物館は極めて重要な役割を担う可能性がある。


公式ガイドブックでは第2展示室から第9展示室までの展示しか載っていないのが残念。この博物館の華語名が「土生文化館」になっているのには複雑な気持ち。「土生華人」でないのはいいけれど、この訳語で未来に開かれたプラナカンという意味がうまく伝わるだろうか。いっそのこと、新しい訳語を打ちだしてもいいんじゃないかと思う。いずれにしろ、21世紀の新しい東南アジア社会への期待を込めて、今後もプラナカン博物館に大いに注目していきたい。