ウルトラマンとマレーシアとぼくらの地域研究

佐藤健志の新刊『夢見られた近代』を読んでいる。相変わらずの解釈の切れ味を味わう一方で、かつてのように議論に圧倒される気持ちはなくなった。私にとって佐藤健志は、結論の方向はまるで異なる方向に進んだが、考え方や書き方の方法は強く影響を受けている人物で、私が「深読み」と言っているのは佐藤の態度に倣ったものだ。
十数年前、研究者への道の最初の一歩を踏み出したころ、佐藤の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』を読んで大きな衝撃を受けた。思い返せば、自分のこれまでの研究は、『コジラと・・・』への自分なりのレスポンスを探す試みだったと言えるかもしれない。幸いにして自分なりのいちおうの答えを得ることはできたし、その過程でたどり着いたのが地域研究という方法だった。地域研究といってもいろいろな方法があるのだけれど、私が身につけた地域研究の方法の核となる部分は、実は『ゴジラと・・・』を通じて学んだ。
少し長くなるし、自分の来歴に関するので語りにくいところはあるが、地域研究というあり方に関連させて佐藤について書いてみたい。なお、以下では畏敬の念を込めて「佐藤」と敬称略で呼ばせていただく。


ゴジラと・・・』は、日本の特撮やアニメを素材に、その裏に潜んでいる日本人の思想を解き明かしている。佐藤の強みは、描かれた通りに解釈するのではなく、それが現実の社会だったらその物語の通りに進むかどうかという極めて現実主義的な観点から検討している点にある。その上で、現実にはあり得ない物語が書かれ、それが観客に受け入れられているのはなぜかを解釈する。すべての解釈が1つの結論に収束しており、はじめて読んだとき、その解釈の力強さに圧倒された。
ただし、佐藤の結論をそのまま受け入れたくはない。でも、読んでしまった以上はないことにはできない。そのため、佐藤の議論にどう対応するかという問題が生じることになる。
1つ1つの解釈は、「違いない」「はずだ」などと結ばれていて、著者の解釈であることが示されている。では、もしその解釈が本当かどうかを確かめたいと思ったらどうすればいいのか。
それぞれの作品を作った人に尋ねる? いや、作品の作り手が本当のことを答えてくれるとは限らないし、答えるつもりがあっても自分の思っていることをうまく言葉にできないかもしれないし、もしかしたら自分が心の底で思っていることを自分で気づいていないかもしれない。だから、「当事者がそう言ったから正しい」では答えにならない。
じゃあ受け手にアンケート調査なり何なりをする? それはそれで意味がないわけじゃあないだろうけれど、そこから出てきた結果が「本当」の答えであるとは限らない。
そもそも、ある人の解釈が「本当」かどうか決められると考える方が間違っているんじゃないか。その人の解釈がどれだけ説得力があるかが大切なのであって、挙げられたデータがきちんと解釈の糸でつながっているかとか、重要なデータを隠してないかとかいったことを確認して、それで否定されなければ、それはそれで説得的な解釈だと認めざるを得ない。
でも、そんなことをしたら、同じデータでも人によって違う解釈がされて、違う結論が出てきちゃうんじゃないのか? その通り。だから、恣意的にデータを選んでいないとか、データの解釈がいい加減だとかいう手続き上の問題がない限りは、複数の解釈が出てきても、さしあたってはどれも認めざるを得ない。
じゃあ、違う解釈や結論がいくつも出てきて、それにも優劣が付けられないものがたくさんある状況を受け入れるしかない、簡単にいえばみんな言いたい放題ということか? そういうわけでもない。どちらの議論がより適切かを検討する方法はある。ただし、個々のデータの解釈の妥当性を議論しても話は平行線をたどるだけなので、そうではなく、最終的な結論が世の中をよりよくするものかどうかを検討する。(そうは言っても、実際に議論するときに結論の意義を語りあうとデータ性のない空中戦になってしまうので、議論するときにはデータの解釈の妥当性を巡って行う。)この方法ならば、一見するとデータに基づいて解釈の妥当性を議論しているように見えるけれど、言葉に出さないものの実際には結論部分の世界観を戦わせている議論ができることになる。
(ただし、解釈なら何でもいいというわけではないことは強調しておく。解釈が説得的であるためには、背景をきちんとおさえるとか、関連する既存の議論を踏まえてその蓄積の上できちんと位置付けているとか、データを恣意的に選ばないだとか、個々の解釈がちゃんとつながって全体で1つの結論に至っているとかいうことが必要なのは言うまでもない。ここで「解釈」に焦点を当てることで伝えたいのは、検証の手続きを厳密にしていけばいくほど「正しい」結論に近づくというわけではないということであって、自分の感性にのみ従っていればそれでよいという意味ではない。)


ゴジラと・・・』に話を戻そう。この本ではゴジラやヤマトやナウシカその他いろいろな作品が取り上げられているが、私の関心に一番はまるのはウルトラマンウルトラセブンだった。(ウルトラマンウルトラセブンは違うけれど、以下ではわかりやすくするためウルトラマンに代表させる。)
佐藤は、ウルトラマンはどうして地球を守るのかと問う。ウルトラマンの第一話は、護送の途中で逃げ出した宇宙怪獣ベムラーを追って地球にやってきたウルトラマンが、地球人ハヤタが操縦する飛行機と接触事故を起こして誤ってハヤタを死なせてしまい、そのため地球に留まって自分がハヤタに乗り移ることでハヤタを生き返らせ、ときにウルトラマンに変身して怪獣たちから地球の平和と正義を守るために戦うことにしたという話だ。佐藤によれば、現実的に考えれば、自力で宇宙飛行できる高度な技術を持った生命体が、ある星のよくわからない生物を誤って死なせてしまったとして、その星に留まってその生物に乗り移ってその敵と命がけで戦おうとするはずがないということになる。
この問いの裏には、スーパーマンはどうしてアメリカを守るのかという別の問いがある。スーパーマンは、生まれ故郷であるクリプトン星が崩壊する寸前に脱出して地球に流れ着き、アメリカ合衆国カンザス州のある家族に拾われて育てられた。だから、スーパーマンは「アメリカの正義」のために戦っている。アメリカへの移民がアメリカ市民になるのと重なり、アメリカ社会の現実に照らして納得できる理屈になっていると佐藤は言う。
対してウルトラマンは、主題歌でも歌われているように「地球のため」に戦っている。これは現実的な感覚ではとうてい理解できないはずだが、日本人には広く受け入れられている。佐藤は、これは日本人がアメリカに安全保障をただ乗りしている心情と重なっているためと論じている。
これをはじめて読んだとき、とても大きな衝撃を受けた。子どものころからウルトラマンが好きだった私は、心の底では自分の世話を他人任せにしている甘えた心情をもっていると指弾された気がしたからだ。話は少しそれるが、このころ私が大学や学会で出会った東南アジア研究の先生方の多くは、欧米の植民地支配に粘り強く戦って独立を勝ちとった東南アジアの国々や、あるいは軍事力では劣るとわかっていても欧米や政府に戦いを挑んで散っていった東南アジアの諸民族に強いシンパシーを抱いており、交渉で独立を得たマレーシアなんて研究の対象にする価値もないという態度を露骨に示していたし、しかも懇親会などで酔ったふりをしては「自分たちは学生のころ当局と戦ったのに今の学生たちは・・・」と武勇談を聞かされたりしたので、若かったせいもあって、政治意識を強くもって自立しなければならないんだろうかと思わされたりした。これと佐藤のウルトラマン解釈が重なって襲ってきたのだった。


再び『ゴジラと・・・』に話を戻す。ウルトラマンアメリカに安全保障をただ乗りしてよしとする日本人のあり方と重なっているとする佐藤の解釈は実に力強い。個別のデータの解釈はかなりの部分で頷けるし、ちょっと言いすぎじゃないかと思う部分もないわけではないけれど、それを積極的に否定する材料があるわけでもない。しかも、佐藤の議論は揺れずに全体で1つの結論に向かっている。でもその結論は受け入れたくない。では、どう対応すればいいのか。
1つの対応方法は、佐藤の解釈が正しいかをどう証明するのか工夫することが考えられる。概念を厳密に定義して、対象とする事例を他の事例から切り分けた上で、統計など必要な手法を使って答えを出す。問いがきちんと定義されて、方法が厳密に定まって、その上で答えが出るのだから、そこで得られた答えはきちんと検証された答えだと言えるだろう。この方法が自分にあっていると思う人はその道を進めばいい。
でも、それでいったい何がわかったことになるのか、細かく設定された部分について厳密な答えは出ても、対象を細切れにしただけで全体像はわからないままじゃないか、という疑問を持つ人もいるだろう。そう思った人は、自分なりの方法で答えを求めなければならなくなる。
その後マレーシアで数年暮らすことになったが、そのあいだもウルトラマンをどう考えるかという問いはずっと頭から離れなかった。マレーシアではよそ者である自分がマレーシアの研究をしてマレーシアの学会で発表することの意味を考えたとき、よその星から来て勝手に地球を守っているかに見えるウルトラマンをどう評価するかという問いと直結していると思ったためだった。


そのなかで私が出会ったのは地域研究という方法だった。それは、佐藤の方法を裏返しにしてそのまま使う手だと言うことができる。佐藤が見せたのはデータをもとにした解釈だ。それなら、同じデータから別の解釈をする可能性もあることになる。個別のデータに対する解釈が妥当で、しかも全体で1つの結論に向かっていれば、解釈自体で優劣や正誤を決めることはできない。佐藤の解釈を否定することはできないとしても、それと別の、少なくともそれと同じぐらい説得力のある解釈を示すことはできるはずだ。
マレーシアの人々の生き方を観察しているうちに、「自分たち」と「よそ者」を明確に分けて、すべて自分たちだけでことを為そうとする考え方に検討の余地があることがわかってきた。マレーシアの人々はそんな狭い考え方をもっていない。外から来ようが内から来ようが、その人が自分たちにどんな利益をもたらしてくれるかによってその人を社会に受け入れるかどうかを判断している。
これをマレーシア研究に即して言えば、自分は確かによそ者で、マレーシアのさまざまなコミュニティのどれにも根ざしていない存在だけれど、だからこそ外部者の目から見た考え方を述べることはできる。むしろ、特定のコミュニティを代弁していないので、どのコミュニティからも(もちろん批判も受けるが)ある程度受け入れられることになる。そうすれば、よそ者の意見を通じてマレーシアの人々が自分たちの社会を考える助けになるかもしれない。別の言い方をすれば、現地社会に通じているけれど外来者でもあるため、外来者として働きかけることができ、しかもそのことに意味があるということになる。
(この先は少し話が跳ぶけれど)外の世界からやってきたウルトラマンの助けを期待することは、決して日本人の植民地根性からとは限らないという解釈も可能になる。また、よそ者である自分がマレーシア研究をしていることの意味もあることになる。さらに言えば、マレーシアの歴史上で同じような役回りを演じた移民や文化的混血者たちへの積極的な評価にもつながることになる。(これをもう少し学術的な言い方をすれば、プラナカンの役割の再評価ということになる。)
その意味で、私がこれまでしてきた研究は、形の上ではマレーシア研究だけれど、その裏には『ゴジラと・・・』への私なりの反論という意味がある。『ゴジラと・・・』と私の議論のどちらが「正しい」かを決めようとすることに意味はないだろう。そうではなく、どちらの解釈をとれば世の中がよりよくなるかを考えることに意味がある。私は、「本場」から見ると民族性が薄れていると評されることのあるプラナカン性が積極的に評価されるようになることで、そして「力づく」ではなく言葉による交渉で自分の要求を実現させようとする態度が積極的に評価されるようになることで、世の中がよりよくなるものと信じている。ということで、ウルトラマンのファンもマレーシア研究も、今後も自信をもって続けていきたい。


念のために追記。ここでは研究と評論を入れ替え可能のように語ったけれど、研究には研究で求められる手続きがあり、地域研究といってもその例外ではない。だから、自分の思い入れを込めた解釈さえすればただちに地域研究の成果として認められると言いたいのではないので念のため。記事中でも書いたけれど、定義や方法を厳密にして切り取られた部分の中だけで厳密に成立する検証結果を得ること(それ自体を否定するつもりは全くないのだけれど)とは別の方向での研究の発展もありうるということ。
もう1つ、ウルトラマン・シリーズについて追記。平成の世になってウルトラマン・シリーズの物語はいくつかの大きな展開を見せている。特徴的なもの2つを挙げておく。1つはウルトラマン・ティガに始まる平成3部作。ここでウルトラマンは異星人ではなく地球に起源があると設定されている。もう1つはビデオ版のウルトラセブン。人間(地球人)と地球先住民のノンマルトが戦うことになり、ウルトラセブンは人間への愛着のためか先住民の権利を認めるという「宇宙の掟」を破ってノンマルト側を倒し、その結果として宇宙意志の牢獄のようなところに幽閉されてしまう。この展開にはとても複雑な気分。


追記。1月14日にテレビ「東大落城」を見ていたら、ウルトラセブンの最終回で使われたことで有名なシューマンのピアノ協奏曲が何度も使われていた。ほかにも「ウルトラマン世代のためのクラシック」のCDから何曲か使われていたような気がする。全共闘ウルトラマンウルトラセブンの組み合わせには複雑な気持ち。