災害映画「252 生存者あり」

災害映画「252 生存者あり」を観てきた。こんな重大時に気象庁に戻らなくていいのかとか気になることはいくつもあったけれど、非常事態に直面した人々がそれぞれの専門性を持ち寄って課題を解決していくという物語であることはよくわかった。昨日取り上げた佐藤健志だったらスクリーンにトマトを投げつけるどころかスクリーンを切り裂きかねない終盤の「ご都合主義」に見える展開も、課題解決というメッセージを訴えるための仕掛けだったと考えることにしよう。(だとすると特定の個人を超人的に描くようなラストはさすがにちょっとどうかなと思うけれど。)


もう1つ思ったのは、この映画は、14年前の阪神大震災に対応した人たちへの、あるいはその人たちからのメッセージでもあるかもしれないということ。この映画の舞台は東京だけど、でも中身は関西(大阪)の物語になっている。大阪の中小企業の底力を見せつけてくれるし、コリア系の人も違和感なく存在しているし。
阪神大震災の関係者には、東京の役人や学者は震災のときに現場のことを考えず公平性やら平等性やら透明性やらといった理屈を持ち出して緊急・復興支援策にいろいろな制限を付けて、そのため現場では助けられたかもしれない人を助けられずに悔しい思いをした人がたくさんいたと言う人が今でもいる。物理的に復興が進んでも、こいった心の問題はまだ整理されていない。そう考えるならば、近親者の命を救うためだけに政府関係者たちにことごとく「超法規的措置」をとらせている「252 生存者あり」は、被災地だけ東京に移して阪神大震災の救援・復興をやり直すという物語とも見ることができる。大阪の劇場で観たら、若い人に交じって年配のお客さんもけっこう来ていた。阪神淡路大震災の経験者とそうでない人とではこの映画の感想が分かれるかもしれないと思った。


この映画で災害対応に関連して学んだこと2つ。
1つ目。このごろ都市部での大地震が話題になっていて、災害で帰宅できないかもしれないとかいう話をよく聞く。そういった可能性を念頭に置いて日ごろから災害に備えておくことは大切だということを確認した上で、でも、どんなに広範囲の災害でも首都全体が麻痺するような大きな災害にはならず、仮にどこかに閉じ込められたとしても、被災していない地域で組織された救援隊が必ず助けに来てくれる。もし災害でどこかに閉じ込められたら、そう信じてあきらめずに助けを待つことにする。
もちろん、被害の範囲に対して人手が足りずに緊急に対応できないかもしれず、そのあいだは近隣コミュニティの助けが重要だとか、自力で生き延びられるように3日分ぐらいの水や食料は自分で備えておくとか、「やるべきこと」をやっておくのは当然の前提で、そのうえでの話。
2つ目。災害に限らないけれど、どんなに絶望的な状況に直面しても、自棄にならず、目の前にある小さな課題を1つ1つ解決していくことでしか問題は解決しない。自棄になれば体力を消耗したりしてその後の対応を難しくするだけ。このことをよくよく頭に入れて、もし実際にそのような事態に直面したら、できるだけそのことを思い出して冷静になりたい。


気になったこと2つ。
1つは水の色。2004年12月のスマトラ沖地震津波インド洋津波)で私たちが知ったのは、都市部の津波は瓦礫などを巻き込んだどす黒い水だということだった。この映画では(津波ではなく高潮だけれど)人々を襲う水がミネラルウォーターのようにきれいだったので違和感があった。
もう1つはエンドロール。「この映画に登場する組織・団体は架空のものです」という通常の説明に加えて、「この映画を撮影するために動物の虐待は行いませんでした」という説明も出ていた。最近はそういうお断りもするのか? 「この映画を撮影するために食べ物を無駄にしませんでした(あとでスタッフがおいしくいただきました)」と書いている映画もあるのかとか、「この映画の撮影中に台詞で暴言を吐かれた役者には後で心のケアを施しました」とか書くようになるのかとか、いろいろ考えてしまった。