インドネシア映画「ナガ・ボナール将軍2」

インドネシア映画『ナガ・ボナール将軍2』(Nagabonar jadi 2)を観た。
タイトルからの印象で独立戦争期の評伝のようなものだと思ったら大間違い。とっても乱暴に言ってしまえば、現代のジャカルタを舞台に、商業開発と家族愛のあいだで新旧世代が折り合いをつけていく様子をコメディータッチで描いたもの。という言い方をするといかにもおもしろくなさそうに聞こえるかもしれないけれど、実際には、おもしろく観て、後でいろいろ考えられる映画だ。
ついでに書いておくと、20年ほど前に作られた映画『ナガボナール将軍』の続編のようだけれどそうでもない。前作を観ておくとニヤリとする場面がいくつかあるけれど、前作を観ていなくても全く問題なく楽しめる。


あらすじは他のところに書かれているものを見ていただくとして、ここではごく簡単に。
主人公は独立戦争の英雄であるナガ「将軍」。今はメダンのアブラヤシ農園で、母親と妻と戦友の墓を守って暮らしている。この「将軍」がジャカルタで起業した息子のボナガたちを訪ねてジャカルタで騒動を繰り広げる。
ジャカルタで将軍を出迎える若者たちは新興の富裕層。ボナガは5、恋人?のモニタは8と、いずれも車のナンバープレートの数字は一桁で、ちょっとしたお金持ち。でも同じ一桁でも1が取れないということはスーパーリッチというわけではない。ではスーパーリッチになるにはどうすればいいか。メダンにある将軍のアラブヤシ農園をリゾート開発すればいい。そのため、ボナガが父親をジャカルタに呼んで契約書にサインさせようという魂胆だ。
将軍の農園のヤシはもう古い、飾りとして残すけれど役には立たない、というボナガたち。ここに象徴されているように、新旧の世代間の関係がこの映画の1つのテーマになっている。


「将軍」は独立戦争の時代からタイムスリップしてきたようなオヤジで、息子たちとの間で世代のギャップのためにあれこれ小さなトラブルを重ねていく。でも憎めないのが将軍の人徳か。
ジャカルタに出てきた将軍は、道路脇に並ぶ看板を見て大統領の写真がないじゃないかと息子に尋ねる。かわりに並んでいるのは商業広告ばかり。今のインドネシアは、大統領に象徴される国家指導者たちではなく、いくらお金を儲けるかというビジネスの成功者たちの方がもてはやされている時代だということを物語っている。
その一方で、道路に穴が空いたままになっていたり、バジャイ通行禁止などの交通規則を作ってみたり、国家英雄の子どもなのに貧しい生活を余儀なくされている人がいたりする。
だから将軍はボナガの豪邸を飛び出してバジャイでジャカルタの町を走ってみた。右に行けだの真っすぐ行けだの場当たり的な指示を出していたように見えるけれど、あれは大統領や国家英雄たちが敬意を払われている場面を探していたため(たぶん)。でも全く見つからず、ついに海岸まで行ってしまった。しかたないので独立記念公園でスカルノとハッタの像に敬礼して、スディルマン通りでスディルマンの像に敬礼する。
将軍がメダンの農園にこだわった理由は、母親、妻、戦友の3人の墓があるから。自分の生んだ存在、自分が愛する存在、自分とともに戦った存在を大切にするということか。


気になったのは、ボナガたち新世代の人々がしょっちゅう口にする「apa kata dunia」という言い方。文字通り訳すと「世界が何と言うか」という意味で、「そんなことをしたら世界の笑いものになる(だからやめろ)」という意味。字幕では「世界の恥だ」などと場面ごとに表現を変えてうまく訳されていたけれど、それはともかく、「世界が何と言うか」という言い方で相手の反論を押さえつける議論のスタイルが目を引いた。
この台詞は反論不能な最強の台詞だ。「世界が何と言うか」と言ったところで、「世界」が具体的に指すものがあるわけではない。だから言ったもの勝ちだ。特にボナガはイギリスの大学院を出ているのだから、「世界」を代弁したとしてもほかの人は文句が言えない。だからこの台詞を吐くと他の人は検証なしで受け入れざるを得ない。(スカルノの人民概念に通じるものがあるかも。)
この映画では、肝心のところで「世界が何と言うか」という台詞が出てきて、特に根拠があるわけでもないのに議論が特定の方に流れてしまうということが何度も起っていた。
「世界が何と言うか」という台詞の乱発は、具体性を伴わない「世界」を乱発することで議論を曲げているこの国の状況に対する批判でもあるのだろう。
将軍の振舞いは、「世界」のことばかり気にしているが肝心の足元はちゃんとしているのかと問いかけているようだ。この映画で将軍が教えてくれたことは、飯はうまそうに食え、サッカーを楽しめ、故人をきちんと弔え、子どもたちに昔の話を伝えろ、といったことだった。


さて、商業開発と家族愛の間で意見が分かれる新旧両世代の対立は、物語の終盤で大きな展開を見せて、あっと驚く形に対立が解消される。あれほど対立していたはずの将軍とボナガの考えがまとまってしまう。これぞまさに、タイトル通り「Nagabonar jadi 2」つまり「ナガボナールが2人になった」というわけだ。扉越しに将軍とボナガが謝りあったり、別々の部屋でしぐさをシンクロさせてみたりしていたので何となく予感はあったが、最後に「ナガボナールが2人になった」ことが明らかな形で示される。こうして旧世代と新世代の対立はあいまいな形で解消され、新世代が旧世代と同じになっていく。インドネシアの社会統合の一端が恐ろしいまでによく描かれている。


ついでにもう1つ。この映画には日本人ビジネスマンが登場するけれど、多くのインドネシア映画やマレーシア映画に出てくるどこか変な日本人役とは全然違って、日本人としてまったく違和感なく、しかもインドネシア映画にとてもうまくはまっていた。完璧な役作りとしか言いようがない。この日本人ビジネスマンのシーンがなかったらこの映画の面白さがかなり失われていただろうと思う。
日本人ビジネスマンが「10年前のインドネシアと何が変わったのか」と尋ねると、今は「インシャアッラー」だという答えが返ってくる。それに対して「それは金で解決するということか、それなら10年前と変わっていないじゃないか」というやり取りが軽妙でおもしろかった。ちょっと毒がある言い方だけれど、インドネシアに希望を見ているからこそ出てくる台詞だろう。