フィリピン映画「マキシモは花ざかり」

フィリピン映画マキシモは花ざかり」を観た。
この映画は各方面に評判がよいらしく、特に性的マイノリティの方々にかなり好評だとの話を聞いていた。私も最後まで興味深く観た。いろいろな意味でひとに勧めたいと思っている。ただし、「ゲイがありのままで人々に受け入れられている」という評価については、考えれば考えるほど気になってしまう。考えをまとめる意味でここにメモしておくことにする。
以下、書いている本人にはそのつもりはないけれど、読む人によっては『マキシモは花ざかり』に批判的という印象を与えかねない記述も出てくるので、そういう話を読む必要はないという方はこの先を読まないことを強くお勧めします。また、説明の都合上、物語の結末まで書くことになるので、映画を観ていない方はご注意ください。


まずあらすじを簡単に。
マニラのスラム街に住む12歳の少年マキシモ。一緒に住んでいるのは父親と2人の兄(ボイとボグス)。母親は亡くなっていて、マキシモが食事や洗濯などの世話をしている。マキシモの父親はこの地域の裏の顔役で、一家は盗品の横流しなどで生計を立てている。マキシモは学校に行かず、番号当てくじの仲介人をして小遣いを得ている。
マキシモは、心は女の子で、かわいい髪飾りをつけて、腰をくねらせてかわいらしく歩く。マキシモをいじめる不良もいないわけではないけれど、マキシモは家族からも町内の人たちからもあるがままで受け入れられている。
マキシモは、不良にいじめられているところを助けてくれた若い警官のビクトルにあこがれて、ビクトルに淡い恋心を抱き、弁当を届けたりビクトルの家に行って世話をしたりする。しかし、悪人は排除されなければならないというビクトルらによってマキシモ一家も捜査の対象になり、殺人の容疑でボグスが逮捕され(実はボイが犯人)、マキシモはビクトルから遠ざけられてしまう。マキシモの父親はボグスを取り戻すための直談判に行くが、過去の恨みがあるビクトルの上司によってマキシモの目の前で射殺されてしまう。
ボグスが釈放され、ボイとボグスは父親の弔い合戦だと警察に討ち入りしようとするが・・・。ラストシーンではマキシモが学校に通い始める。


マキシモはどうして女の子のように振舞っているのか。いつからそうなっているか描写がないのでわからないけれど、亡くなった母親のかわりを務めていることは明らかだろう。もしかしたら父親の愛情を受けたいという理由もあるかもしれない。いずれにしろ、ここでとても重要視されているのは家族の絆だ。
この映画では、「家族のため」が行動原理になっている場面が随所に出てくる。マキシモの父親が殺されるのもそうだし、そのあとに討ち入りに行こうとするのもそう。随所に「国家のため」が出てくるインドネシアの映画とあわせて観たのでそのような印象が強くなったのかもしれないし、私はこれ以外にフィリピン映画をほとんど観ていないのでフィリピン映画によくある特徴なのかどうかはわからないけれど、少なくともこの映画では「家族のため」が人々の行動原理になっている。
マキシモは女の子として家族に受け入れられているけれど、それは食事を作ったり掃除や洗濯をしたりする存在が必要だからではないか。マキシモは男に生まれたので、女のように振舞うには頭の中の女のイメージに従うことになる。マキシモはイメージする女はどんな女なのか。「男が理想とする女」であるように見えてならない。マキシモの父や兄たちは、それを承知の上でマキシモの心を利用しているように見えてしまう。
マキシモは警官のビクトルに恋心を抱き、ビクトルの世話をしようとするけれど、ここでも同じことが起こる。ビクトルだって、自分の世話をしてくれる人がいればもちろんありがたい。ビクトルはどんな女の子が好きかをマキシモに聞かせている。それに近づこうとマキシモが努力することがわかっていながら。「生身の女」が相手だと、結婚もせずに身のまわりの世話をさせるといろいろ問題になるかもしれないので面倒だ。でも生物学上の男ならばその種の問題が生じる心配はない。その意味で、マキシモはビクトルにとって都合のいい存在ということになる。
ビクトルとの関係も疑似的な家族だと考えれば、マキシモは父や兄たちとの家族とビクトルとの家族の両方で家族を築き上げたくて、そのために「男が理想とする女」の役を引き受けているということになる。(もちろん、あのかわいいマキシモちゃんがそのように計算して行動しているということではなくて、そのような構造になっているということ。)
しかし、犯罪を生業とする実家と犯罪者の逮捕を職務とするビクトルの両方と家族の関係を作ることは許されず、どちらかを選ばなければならない。父親からビクトルと会うなと命じられると、マキシモは家で炊事をしなくなる。襲われてけがをしたビクトルの家に泊まり込んで看病し、その間に家では父や兄が食事がなくて飢えている。


ところが、ビクトルは新しい上司に命じられ、一人前の警官になるためにマキシモの家を家宅捜索してマキシモの母親への思いをあえて踏みにじる。これにより、マキシモはビクトルと家族を作る道を断たれてしまう。しかも父親は警察に殺されてしまい、マキシモの家族を支えてくれる存在がいなくなってしまう。
家族関係の中に身を置くことで自分の居場所を確保しようとしていたマキシモは、父親とビクトルの両方を失うと、自分を学校に位置づけようとする。ラストシーンでは再び学校に通い始めている。また、学校に通うマキシモに対して2人の兄が弁当や制服を準備してあげている。これは、2人の兄が家庭内で炊事や洗濯を担当することになり、それによって自分たちを家族の中に位置づけなおしたということだ。


このように考えると、強い男が守ってくれる社会にあって、マキシモは家族の中で自分の居場所を見つけるために「男が理想とする女」の役を引き受けようとしたし、まわりの男たちはそれを求めたという図式になる。父親がいなくなって家族が自分を位置づける枠組みとして十分に機能しなくなると、今度は学校に自分を位置付けていった。
繰り返しになるが、マキシモが女の子として暮らし、それをまわりの人たちが受け入れているのは、多様な性のあり方を認めるということよりは、自分たちの理想の女がほしいという男たちの欲求を満たす形で成立しているように思えてならない。だから、この映画は結局どこまで行っても男だけの物語ということになる。「生身の女」には「男が理想とする女」と現実の存在としての女の部分が合わさっているので、男の理想に照らしてみると女としての純度は低い。だから、「生身の女」よりは「男が理想とする女」をきちんと演じる男の方が都合がいい。この映画では、はじめのうちはスラム街のいろいろな女が描かれていたけれど、物語の後半になると「生身の女」はどんどん退場していき、ほとんど出てこなくなる。


マキシモの父親とビクトル。どちらも家族という枠組みでの庇護者となるようマキシモが求め、結局実現しなかったという共通点もあるものの、2人はとても対照的だ。
父親は、「盗みはいいけれど人殺しはするな」と教えていたにもかかわらず人殺しをしてしまった息子(と間違えられて逮捕された別の息子)の釈放と引き換えに、警察に自分の命を差し出した。最初に食事のシーンでお祈りしていたからといって、実は心の中で敬虔な信仰心をもっている人だったと考えるのは正しくないだろう。あれは信仰心のためではなく、その場の人たちのあいだで自分の権威を認めさせるための仕掛けとして宗教が使われているということ。(その意味ではビクトルも似たり寄ったりのところがある。)
ビクトルは、マキシモの父親がいなくなったのを知り、今度こそマキシモにアプローチする気になった。口笛で合図するビクトル。これに口笛で応えるマキシモ。女の子の心を持ったマキシモにしてみたら、自分がビクトルに振られた格好でビクトルとの関係が終わるのは許せない。だからビクトルからの口笛に応えて、ビクトルが自分に気があることを確認して、そのうえでビクトルとの関係を終わりにする。口笛の交換をした後にマキシモはすがすがしい気分で学校に通うことができる。ところが男の心を持ったビクトルは、口笛の返事が返ってきたため、脈ありだと考えている。翌日、学校に向かうマキシモを見かけて、車で先まわりして通り道で待つが、マキシモはビクトルに声もかけずに通り過ぎる。ここからは私の勝手な深読みだけれど、ビクトルはこれでわけがわからず、かといってマキシモに自分から声をかける勇気もなく、黙って見守っている。今日は初登校だから緊張しているんだろうなどと勝手な理由をつけて、自分に声をかけてくれなかったことを納得しようとする。マキシモは自分にまだ気があると思っているので、この後も待ち伏せしたりするかもしれない。男と女の大いなるすれ違いが手に取って見えるようだ。


フィリピン映画でどうかはよくわからないけれど、マレーシア映画やインドネシア映画では、ゲイが出てくることはあってもほとんどが笑いものか変わり者のどちらかとしてだったりする。それに対して『マキシモは花ざかり』ではゲイが笑いものでも変わり者でもなく受け入れられている様子が描かれている。その意味で特筆されるべき映画だということには全く異論がない。多くのことを考えさせてくれた映画で、いろいろな意味で気に入っている映画だし、たぶんこれからも何度も繰り返し観るだろうと思う。それでもやっぱり物語にどこか違和感を覚えてしまう。ネット上で他の人の感想を読んでみると、私とは違う感想を持つ人が多いようだ。自身にとっての問題の深刻さが違うと受け止め方も違ってくるということなのかもしれないと思う。