インドネシア映画「空を飛びたい盲目のブタ」

大阪アジアン映画祭2009でインドネシア映画「空を飛びたい盲目のブタ」(Babi Buta Yang Ingin Terbang/Blind Pig Who Wants to Fly)を観た。
かなりわかりにくくて、観終わってからも引きずってあれこれ考えてしまう。それほど強烈な印象を与える映画で、これまでに観てきた映画のなかでも指折り数えるほど。観る人によっては私とまるっきり違う感想を持つ人もいるんだろうけれど、それも含めて、ぜひとも観ることをお勧めする一押しの映画だ。


ありていに言えば「差別の中で生きてきたインドネシア華人の3世代の経験を宗教や政治や性の要素を交えて描いた」となるのだろうか。でもこの映画でキリスト教批判や暴動や同性愛は添え物のようなものだ。「マイノリティとしての華人」という言い方だって、添え物とまでは言わないけれど、この映画に込められた静かで熱い想いをうまく伝えきれない気がする。うまい言い方が見つからないが、例えば、口を塞がれたインドネシア華人がどうしゃべるかという物語と家系を継げないインドネシア華人の女たちの物語がねじれながら絡みあっているという言い方の方が自分の印象にずっと近い。華人は民族的マイノリティとしてインドネシアで原住民系の住民から差別的な待遇を受けてきた。それはそうなんだけれど、でも何にたいへんな思いをしているかと言えば、華人に生まれたからには家系を残さなければならないという華人の(特に男たちの)縛りだったりする。
ついでに余計なことを書くと、ヤスミン・アフマド風に1語でタイトルをつけるとしたらketurunanあたりでどうか。邦題は、muallafを「改宗」ではなく「改心」と訳したように、keturunanを「子孫」ではなくそれをちょっとひねった訳をあててみるとか。


物語内の時間が進んだり戻ったりして登場人物の関係やできごとの経緯をやや掴みにくいので、もうちょっと補足説明を入れてくれると物語としてわかりやすさは増すだろうと思う。舞台挨拶に来ていたプロデューサーも、インドネシアで一般公開する際に編集し直す可能性を示唆していた。でも、意味づけがよくわからないシーンも含めて、今回公開されたものを観ることができて幸運だった。
いくつかの物語の断片が時の流れに従わずに並べられているため、繰り返しになるが、物語はわかりにくい。あとで頭の中で時間軸に沿って整理し直してみたけれど、見落としたのか言及がなかったのか、設定がわからないために細かいところで物語がわかない部分もある。でも、逆に言えば観た人が深読みする余地が大きいということだ。プロデューサーは「個人の物語なので特に哲学的な意味はない」と言っていたけれど、映画は作った人の思惑そっちのけで深読みするのが楽しいのだから、ここではいつもの調子で自分なりの感想をメモしておこう。(1回観ただけなので記憶違いや誤解があるかもしれませんが、その場合はぜひ教えてください。)


例によって、内容紹介の都合上、物語の展開を結末まで含めてかなり細かく書くことになるので、映画を観ていない人はご注意を。
まずは登場人物紹介。この映画では、まずちょっと不思議な紹介がされて、しばらく経つと別のエピソードの中でその理由がわかる仕掛けになっている。ここではなるべく時間軸に沿って並べておく。
ベラワティ。インドネシア華人女性。キリスト教徒。バドミントンの選手で、優勝トロフィーをいくつも持っている。冒頭のシーンでは中国の選手と対戦して接戦を演じたが、観客の男の子は「どっちがインドネシアなの」と尋ねていた。
妹のリンダ。小学生時代と大人になったリンダが出てくる。小学生のリンダは、幼なじみのチャヨノと将来の話などをしながら過ごしている。大人になったリンダは、「爆竹を食べる美女」として世界びっくり人間大集合のようなテレビ番組の取材を受ける。
リンダの幼なじみのチャヨノも華人。子どものころ「中国のチビ」といじめられて、大きくなったら何になりたいかと尋ねられて「中国人以外なら何でもいい」と答えるほど。大きくなると日本人になろうとして日本人の格好をしている。
ベラワティとリンダの父親のハリム。盲目の歯医者さん。最初のうちはたぶんキリスト教徒。治療室ではスティービー・ワンダーの「I just called to say I love you」のテープをかけて、歌いながら診察する。1人で歌いたくないので、いつもそばにいる人に一緒に歌ってもらう。診察は手袋をはめて患者の口の中をいじり倒す。妻はおそらく亡くなっている。診療所には、後にハリムの妻になる原住民系でイスラム教徒の歯科助手サルマがいる。
ヤフヤとロミ。どちらもハリムと同じような世代のおじさん。恋人どうし。ヤフヤはテレビ番組のプロデューサー。プール付きの豪邸に住んでいる。ヤフヤは軍人、ロミは役人のような格好をしているけれど、どちらもコスプレかも。ヤフヤがハリムのところで歯科検診を受ける。
スウィスノ・ウィジャナルト。ハリムの父親で、リンダたちのおじいさん。華人名はウィー・ギアンティック。でも学校ではベルナルトゥスと呼ばれ、後にスウィスノ・ウィジャナルトという名前になった。これはジャワの由緒ある名前で、かなり気に入っている様子。歳をとってからはおじいちゃん仲間たちとビリヤードをしながら孫のリンダの相手をしていた。タバコの煙を口から出して輪にするのが得意。オランダ語が話せる。

子孫継承をめぐる深い溝

この映画で一番強く感じたのは、インドネシア華人の子孫(家系)の継承をめぐる男と女の間の深い溝だった。インドネシア社会にあまりなじみがない人には説明がちょっと足りない部分もあるので、補いながら整理してみる。
物語の途中でハリム父さんが「イスラム教に改宗する」と言いだす。助手のサルマと結婚するため。ただし、サルマを妻にしたいというよりも子どもがほしいから。すでにベラワティとリンダがいるけれど、どちらも娘なので家系を継ぐことができない。家系を継いで子孫を残すには男の子がいなければならない。
サルマのお腹にはハリムとのあいだの赤ちゃんがいたようだ。サルマは結婚の条件として、プロデューサーのヤフヤに頼んで自分をテレビのオーディション番組「プラネット・アイドル」に出演させるようハリムに持ちかける。もしその番組で優勝したらハリムと結婚してお腹の赤ちゃんを産んであげてもいいという。
ヤフヤはある条件をつけてハリムのお願いを聞くことにした。ハリムは大変な思いをしてヤフヤの条件をのむ。サルマは優勝して、ハリムはイスラム教徒になり、男の子を手に入れる。
このあとビリヤード場でリンダが、おじいさんが死んだら火葬と土葬と散骨のどれがいいかをおじいさんに尋ねている。この場面がこの映画の肝の1つであるように思うけれど、説明が足りなくてちょっとわかりにくい。
自分の葬式のことを尋ねられたおじいさんは、1人でビリヤードの玉を弾きながら聞いている。それまでのシーンでは仲間と交代で玉を弾いていたが、みんな逝ってしまい、ついにおじいさん1人が残されたということなんだろう。次はいよいよおじいさんの番ということになる。
リンダがそんな質問をした理由は、ハリム父さんがイスラム教に改宗して、おじいさんが亡くなったときに誰がどうやって弔うかが問題になるため。ハリムは自分を弔う息子を手に入れるためにイスラム教徒になってしまった。だから自分の父親をキリスト教式に弔うことができない。おじいさんもイスラム教徒になってお父さんに弔ってもらうか、それとも私がキリスト教式で弔ってあげましょうか、というのがリンダの質問に込められた直接的な意味だっただろう。
リンダの質問に、おじいさんは「くだらんこと」とだけ言って話をやめてしまった。「くだらんこと」としか言わなかったのは、どの宗教だろうがかまわない、つまり、ハリムに男の子が授かって家系が続くのならば自分の弔い方などどうでもいいという態度だと解釈することもできる。そう考えれば開明的なおじいさんということになる。
でも、おじいさんとリンダの態度を見ると、たぶん違う意味が込められていたんだろう。おじいさんから見れば、リンダは女なので自分の家系を継ぐ存在ではない。「くだらんこと」と言ったのは、「家系を継げない女のお前には関係ないこと」という意味だったというわけだ。
おじいさんもお父さんも自分の「墓」を作ってくれる人を切望している。でも自分はおじいさんやお父さんの墓を作ってあげられない。墓を作れないリンダは、おじいさんが亡くなると遺灰を海に撒くだけだった。

リンダは何を受け継いだのか

リンダはおじいさんから何を受け継いだのか。子孫を受け継ぐことができないリンダが受け継いだのは、口から吐いたタバコの煙で環を作ることだった。たったそれだけ。でも、「口から出すもの」はリンダたちにとって大切なものだ。
では、リンダの幼なじみのチャヨノは? 華人の男なので家系を受け継ぐことの呪縛はよくわかっている。子どもの頃に「大きくなったら何になりたいか」と尋ねられて「中国人以外なら何でも」と答えたのは、「中国人」と言っていじめられたせいでもあるけれど、家系を受け継ぐ呪縛から解き放たれたいという意味もあるのだろう。だから日本人になりたがっている。
そんなチャヨノは、おじいさんから何も受け継がせてもらえないけれど何かを受け継ごうともがいているリンダを見て、それを支えたい、少なくとも伴走したいと思っている。でもチャヨノはタバコを吸わないので、タバコではなく線香の煙で環を作るだけ。煙の輪を作ることはできてもタバコの煙ではない。チャヨノにはリンダを助けることができないということだ。もしチャヨノがリンダと子どもを作っても、それはチャヨノの家系を継ぐのであって、リンダのおじいさんやお父さんの家系を継ぐ子孫にはならない。
そんなチャヨノが得意なのは映像を編集することだ。1998年の反華人暴動の映像を編集して、そこにスティービー・ワンダーのカラオケをかぶせたものを作った。カラオケなので歌はなく、暴動の映像にあわせて歌詞が字幕で流れていくだけ。言葉を発するのではないけれど、メッセージを伝えることはできる。ものをしゃべる口を塞がれても、映像を編集して、それを世の中に発信することで無言ながらしゃべることができる。

男たちは何を残したのか

では、子孫を残したいと願ったおじいさんやお父さんの祈りは通じたのか。ハリム父さんはイスラム教に改宗して新しい奥さんを迎え、念願の男の子を授かった。ウィー姓をもう一代続けることができた。でも、それで継承されたものは何なのか。
ハリム父さんとサルマのあいだに生れた男の子は、この映画の冒頭のシーンに登場している。中国とインドネシアのバドミントンの試合で、接戦の様子を見ていた客席の男の子が「どっちがインドネシアなの?」という素朴な一言を発する。どちらも中国系の顔つきだということだけれど、この男の子がハリム父さんの息子で、そしてインドネシア側の選手がベラワティであることを考えるならば、この子の目には自分の異母きょうだいであるベラワティがインドネシア人に見えないということになる。これを、それでも男の子を残すことができたと見るか、男の子は残ったけれど頭の中は華人をよそものと見るインドネシア原住民と同じになってしまったとみるか。

塞がれた口で発信する

家系を受け継がせると言っても、自分たちをよそものとしか見ない子孫を残すことにどれだけの意味があるのかというベラワティとリンダの物語。これだけだとあまりにも救われない。「私たちインドネシア華人はマイノリティとして差別されていると言ったとき、その「私たち」には私たち華人女性も含まれているんですか」という訴えが聞こえてくる。
でもこれだけで終わらず、口は塞がれても世の中に発信することはできるというチャヨノの物語と絡められている。
撮影監督でプロデューサーのシディ・サレさんによれば、この映画はエドウィン監督自身の物語をもとに作られたものだそうだ。エドウィンさんはインドネシア華人だそうだが、男性だ。この映画では華人女性の華人男性に対する冷めた視線が感じられるが、それはどこから来ているのか。映画の登場人物を見まわしてみると、映像の編集の仕事をしているチャヨノがエドウィンさんと重なって見える。リンダは元気なのだろうか。


あとは感想の断片。上の説明にうまくはめるとわかりやすくなるだろうと思うけれど、それぞれについて考えがよくまとまらないので、この場は思いつくままに並べておく。

目を潰すことと口を塞ぐこと

この映画の登場人物は、誰もが変な風に口を塞がれている。口は、ものを食べる器官であるとともにものをしゃべる器官でもあって、この2つを封じられると生物的・社会的に命を絶たれてしまう。
「爆竹を食べる美女」リンダは、レポーターにインタビューされても一言も口をきかない。インドネシア語がわからないのか、じゃあ説明はいいからやって見せて、と言われて爆竹を咥えて火をつける。咥えているからしゃべれない。あるいは、しゃべりたくないから咥えるのか。
さいころのリンダは、お父さんとスティービー・ワンダーの歌を歌っているとき、歌詞の一部を歌わない。
ハリム父さんは、患者の口の中を指でいじり倒して診察する。でも、新しい妻を迎えるための交換条件でとんでもないことに協力させられる羽目になり、そこで口を塞がれてしまう。子孫を残す代償として口を塞がれる。
ハリム父さんは目が見えない。おそらく自分で目を潰したのだろう。おじいさんはオランダの格言を引いて「目はみんなのためもの」と言っていた。みんなのためのものを自ら棄てたということは、他人からどのように見られているかという視線を受け止めたくなかったのかと想像してみる。

リンダとチャヨノ

小学校時代のチャヨノがリンダと一緒に下校しているとき、悪ガキたちに「中国のチビ」といじめられる。チャヨノの両親は、チャヨノがリンダと一緒に通学しているためにいじめられるのだと思い、息子をリンダと引き離そうとする。「リンダから引き離した方がいい」「寄り道しないで帰らせろ」「公立学校に転校させようか」「公立学校はイスラム教徒が多い」「イスラム教徒がいてもいい、中国人がいないところに入れよう」という両親の会話がリンダにも聞こえてくる。
チャヨノと引き離されたリンダ。お父さんにスティービー・ワンダーを一緒に歌ってくれと言われ、一緒に歌うけれど、「I just called to say I love you」の部分になると口を閉じてしまう。「I love you」と言う相手を失ってしまったから。「爆竹を食べる美女」になって口をきかなかったのがそのせいかはわからない。
お父さんもお姉さんもスティービー・ワンダーを歌うけれど、英語がどこかたどたどしい。英語がわからないわけではないけれど、歌は歌。それに対してリンダは流暢な英語で歌う。リンダ世代では英語も自分の考えを表現する普通の言葉として受け入れられているということか。そうだとすると、たとえ歌でも「I love you」と言うのはその意味がわかって言うわけだから、本当に言うべき相手にしかいいたくない。
小学生のころ、大人になったら何になりたいかとリンダに尋ねられ、「中国人以外だったら何でも」と答えていたチャヨノは、大人になって日本人になろうとした。再会するチャヨノとリンダ。チャヨノがリンダの「爆竹を食べる美女」の映像を編集しているということは、テレビ番組への出演をきっかけにチャヨノがリンダのことを知って再会できたのかもしれない。1998年の暴動の映像にスティービー・ワンダーのカラオケを載せたものを作るチャヨノ。それを見ながら、チャヨノを指さして「I love you」と歌うリンダ。ようやくその台詞を言える相手に会えたんだね。

同性愛行為

サルマが「プラネット・アイドル」に出られるように便宜を図ってもらうのと交換で、ハリムはヤフヤに便宜を図ることになった。それは、ヤフヤがいくら持ちかけても自分との性愛を受け入れてくれない恋人ロミに同性愛を経験させるため?間接的につながるため?に、ハリムの体を使わせてもらうことだった。歯医者の診療室で、ハリムをはさんで体が繋がるヤフヤとロミ。パンツを下ろした3人のおやじが繋がっている映像は確かにセンセーショナルだけれど、ハリム父さんが口を塞がれたこと以上の意味はあんまりないかも。

キリスト教の説法

テレビで流れているキリスト教の説法。「旅人をもてなしなさい」「旅の途中で助けを待っている人たち」「他者は自分の日常の一部」など。インドネシア華人が置かれた境遇に対して無力であることへの皮肉?

スティービー・ワンダーの歌

この映画ではスティービー・ワンダーの「I just called to say I love you」が何度も使われている。プロデューサーは「払った著作権料が高かったので何度も使いたおした」と言っていたけれど、これは「みなさんでご自由に解釈してください」の婉曲表現だろう。春でもない秋でもないと歌っているところから、四季がある故郷から四季のないインドネシアにやってきた自分たちのことを重ねわせているのかなどと想像してみる。だとしたら「I love you」は誰に向けて歌っているのか?

盲目のブタ

チャノヨに「下を向いて歩くのはやめなよ」と言うリンダ。原住民系の悪ガキたちに「下を向いてブタみたいだ」とからかわれる小学生のチャノヨ。「下を向く」というのはインドネシア語ではtunduk。ただ下方を見るという意味だけでなく、服従するとか降伏するとかいう意味も持つ。原住民系の悪ガキたちが「下を向いている」と言っていたのは、華人系が自分たち原住民系に服従するという力関係を背景としたもの。
ついでに言うと、「babi buta」とは文字通りには「盲目のブタ」という意味だけれど、通常は「猪突猛進」という意味で使われる。以前、大学書林インドネシア語辞書に「babi-buta」の訳語として「盲目」の部分をうまく使って「猪突盲進」と書いてあったのを見てなるほどと思ったことがある。検索してみたらこの表記を使っている人もけっこういるようだ。
話を戻すと、この映画では実際につながれていたブタが何度か登場する。一般公開するときには同性愛行為よりもブタのアップの方が問題になるんじゃなかろうかと心配になるけれど、それはともかく、このブタはもがいているうちに綱から逃れて逃げ出すことになる。綱から自由になったのか? でも、自由になったブタが逃げていく先はどこまで行っても荒野のように見える。
綱から解き放たれて自由になったと見るか、この大地にいる限りは逃げ出したところで同じだと見るか。別の言い方をすると、ブタに飛べと言っているのか、それとも、飛ばなくてもいい、たとえば木に登るとか他にもいろいろ生き方はあるじゃないかと言っているのか。タイトルと関連しているのでこの映画の肝の部分だろうとは思うのだけれど、そのあたりがちょっとわからなかった。