Sandcastle/沙城

病み上がりというか療養中ではあるけれど、ぼちぼち活動再開をと思っていたところにシンガポール映画祭で「Sandcastle」を上映するという。シンガポール・マレーシア関係者から話を聞いて、去年からずっと観たいと思っていたもの。
思うことがたくさんあってまとまっていないので、とりあえず思いつくままにメモ書き。
なお、以下の文章には映画「Sandcastle」の内容に触れる部分がたくさんあります。「Sandcastle」は映画を観ながら謎を解き明かしていくような部分があるので、内容や結末を知らないまま観た方がよいと思います。未見のかたはご注意ください。
また、私は一度しか観ていないので見間違いがいくつもあるかもしれませんが、もともとここでは深読みしすぎだと言われるぐらいのつもりで思うこと思わないことをあれこれ書いているので、お読みくださる方はそのつもりでお読みください。
映画の概要は省略。

断絶

物語は冒頭からいくつかの断絶があることを繰り返し見せる。
まず言葉の断絶。エンと母親は華語で話す。母親とおじいさん、おばあさんは福建語で話す。おじいさんとおばあさんは華語もわかるので、エンと話すときは華語で話す。エンは福建語がわからないので、おじいさんや親戚から話しかけられてもわからず、母親が華語で通訳している。しかも、エンは華語はわかっても繁体字は読めない。だから父親の手紙を読むことができない。(中国から来た21歳のガールフレンドはなぜか繁体字が読める。)話し言葉でも二世代離れてしまうと中途半端にしか伝わらないし、書き言葉だと一世代でも断絶がある。


もう1つの断絶は宗教。母親の車には十字架の飾りが下げられており、キリスト教徒。合唱団の先生をしているのも、もしかしたらキリスト教系の団体の活動かもしれない。
おじいさんはお線香をあげていたのでキリスト教徒ではない。宗教が違うと、肉親でも亡くなったときに弔ってあげることができない。おじいさんの葬式のときも、母親は途中で「私たちはあちらで弔いをするから」と言って葬儀の場から席を外してしまった。
エンはおじいさんの家に行ったときにマレーシアに(墓参りに)行こうとお願いしたけれど、母親はあまり乗り気でなかった。埋葬されている人に対するいろいろな思いがあるためでもあるけれど、キリスト教徒である母親は中華式のお墓にお参りできないという理由もある。
エンが行こうとしたのは、字幕では一般の日本人観客のために「マレーシア」とされていたけれど、実際のセリフでは華語では「新山」、英語では「JB」、つまりジョホールバルだった。ジョホールバルのお墓は中華系の墓で、夫婦で1つ。はじめから夫婦の名前が2人1組で刻まれていて、夫婦のどちらか一方が亡くなるとその人の名前だけ黒字にして、配偶者の名前は赤字にしておく。死後も夫婦一緒の「予約」ということ。だから華人の家族では、独身で亡くなった人の墓をどうするかとか、配偶者が亡くなった後で再婚した場合にどうするかがときどき問題になる。エンの父親の墓は隣に空きがない1人分の墓だったように見えたけれど気のせいだろうか。


母親とおばが病床のおばあさんをキリスト教に洗礼させようとして、エンが「自分のためだろ」と反対した。母親にとって自分の都合のためということもあるのだろうけれど、おばあさんが亡くなったあとで自分たちがちゃんと弔ってあげられるようにおばあさんと自分たちの宗教を同じにしたかったという思いもあるのだろうと思う。エンの母親にとっては自分の実の母親ではないけれど、亡くなった後もお世話をしようという思いがあったということ。血のつながりでなくても家族を作れるし、それは一見すると西洋起源のキリスト教を受け入れて華人の伝統を守っていないかに見える人たちの間でも共有されている。でもそのことはエンにはまだ理解できないようだ。
華人社会では、男に生まれれば家を継いで家を守っていかなければならないし、そのためには結婚して男の子を生まなければならない。子育てに結びつく結婚とは違う道を行きたいと思う男は悩むことになる。そして、女に生まれれば、もし自分が家を継ぎたいと思ってもはじめから家を継がせてもらえないと悩むことになる。これはインドネシアエドウィン監督の『空を飛びたい盲目のブタ』のメインテーマだった。華人社会には家を継ぐという問題があって、とくに宗教の違いと言葉の違いにそれがあらわれるというのはシンガポールインドネシアも同じ。
ところで、ちょっと記憶が曖昧だけれど、海辺でエンがガールフレンドのインと話をしているとき、虫刺されを掻こうとしたのをとめたエンが「刺されたところを指の爪で十字にする」と言っていたけれど、それを教えてくれたのはおじいさんだった? おじいさんも実は心に十字架を秘めていた?

タイトル「Sandcastle」に込められた意味

Sandcastleは、シンガポールの独立以前の世代から独立直後の世代、そして現在の世代へと世代がかわっていくにつれて、言葉や宗教・慣習の断絶が大きく、世代を越えて記憶を伝えていくのが難しいという話になっている。では、シンガポールの若い世代はシンガポールのことをどう考えているのか。あるいは、タイトルのSandcastle(沙城)にはどういう意味が込められているのか。
まずは文字通りの「砂の城」。劇中では、海辺の砂浜で砂で作られていて、波に洗われて崩れかけた砂の城。それがシンガポールに重ねられている。シンガポールは華語ではふつう「新加坡」だけど、略すと「星城」と書く人も多い。この場合、「城」は「都市」だから「星の都市」ということだろうけれど、それを「砂の都市」と呼んでみたということだろう。


砂の城」がシンガポールを指しているのはいいとして、問題は、ということはシンガポールは握っても指の間からさらさらと崩れ落ちてしまう砂上の楼閣だという皮肉なのかというと、もちろんそういう面がまったくないわけではないけれど、でも深読みをたくましくするならば、この作品のメッセージはむしろその逆なのではないかと思う。
はじめと最後に海辺が出てきた。海辺の砂浜。海の向こうにはエンにとっての父、おばあさんにとっての息子がいる世界がある。海から海底王国の理想を掲げた男がやってくる。海の向こうから中国人移民がやってくる。そして自分たちも海の向こうからやってきた中国人移民だった。海はいろいろなものがやってくるところだし、それがこの土地に足を踏み入れることで土地の事情と折り合いをつけて1つの社会を作っていくところで、その最前線が水際、つまり海辺の砂浜。
砂浜の砂は、海側の存在であるとともに陸側の存在でもある。砂を集めて城を作ってみる。海の波が来たら城は崩れるけれど、崩れてもまた作ればいい。砂はいろいろな世界からシンガポールにやってきた人たちで、シンガポールとは、いつも海の波(外の世界の動き)に洗われながら形を変えていって、いつも自分たちを作り直している社会だから。

挿入歌

このメッセージは、Sandcastleで使われていたいくつかの歌にも込められているように思う。
オープニングの歌は「家」という華語の歌。背景には1950年代を思い浮かべさせる白黒写真が映っている。このほかにも、劇中に白黒写真をバックに何度か歌が流れて、それがいずれもシンガポールを故郷として歌うものなのだけれど、どれも華語で歌われている。これに対し、物語が進んでいくと、歌われているのが英語の歌になる。合唱団が歌っていたのは1990年代には定番だった「Stand up for Singapore」。
話は少しそれるけれど、この歌は、1990年代に、ナショナルデーに国立競技場で行われる祝賀イベントで観衆が声を揃えて歌って盛り上がる歌の1つだった。私はまさに1990年代に縁あってシンガポールのナショナルデーの祝賀イベントに参加する機会が何度かあって、1年目はこの歌やほかの歌が歌えなかったのでいまひとつ乗りについていけなかったけれど、2年目からは歌をしっかり練習していったので、スタジアムの観衆と一体感が得られた気分になったものだった。そのときの歌の1つが「Stand up for Singapore」。Sandcastleの劇中で「国民に一体感を与える」と言っていたけれど、それにまんまとひっかかったというわけ。


話を作品中の歌に戻すと、エンディングの歌は英語の「Home」だった。つまり、Sandcastleは、華語で故郷を歌っている歌がしだいに英語で祖国を歌っている歌にかわっていくという話になっている。そこのところだけ見れば、世代がかわっていくと言葉も変わっていき、言葉や慣習の断絶などのために旧世代の経験や記憶が伝わらないというメッセージだと受け止めることもできるかもしれない。
でも、エンディングの「Home」はディック・リーの作詞・作曲による歌で、そしてオープニングの「家」は「Home」の歌詞を華語にした同じ歌だ。言葉は違っているけれど同じ歌。ということは、表現のしかたは違っても心の根は同じだということ。これは、英語世代になったからと心配しないで、シンガポールは常に変わり続けることを余儀なくされていて、それぞれの時代にあわせてシンガポールアイデンティティを組み立て直し続けていくから、という若い世代のメッセージなのではないだろうか。
シンガポールの映画や文芸作品にはアイデンティティ探しをテーマにしたものがとても多い。でも、それはシンガポールが若い国でもともと移民が多くて人工的な国家だから自分たちのアイデンティティが失われていて、だから血を吐きながら続ける悲しいマラソンのようにアイデンティティ探しを続けているのだと捉えるのはいかがなものかと思う。世界は常に変わっている。シンガポールは小さい国なので世界の変化の影響を受けやすいけれど、変わり続ける世界にあわせて自分たちのアイデンティティを模索し続けなければならないのはどの国やどの社会でも同じこと。「シンガポール人はアイデンティティ探しばかり」と言っている人は、自分たちのアイデンティティは探さなくても不変のものとしてしっかりそこにある(どこに?)と思っていないだろうか。

歴史の見直し

シンガポールが自分たちの歴史をどう描くか。この映画で話題になった1950年代の華語学校の廃止とそれへの抗議運動については、数年前からシンガポールで本が出版されている。そこに書かれている見解が教科書に載るまではなっていないけれど、人々の間で語られ始めている。若い人たちがどれだけ自分のこととして捉えているかはわからないけれど。(でも、繰り返しになるけれど、その事件を自分のこととして捉えていない若い世代であっても、その世代なりにシンガポールのあり方を考えているんだ、というのがSandcastleのメッセージだと思う。)

そのほか

ジグソーパズル

ジグソーパズルをやると、ふつうは外側からピースをはめていくので真中が残る。劇中でエンとガールフレンドがジグソーパズルをしている場面で、真ん中のピースがはまっていない部分がちょうどシンガポールの形をしていたように見えた。(もしかしたら上映前の広告を観すぎたための気のせいかも。)ジグソーパズルのピースをはめていくのは、いろいろなパーツから組み合わされた社会を作ること。真ん中のシンガポールだけ空白なのは、外側の世界からピースが埋まりならがだんだんシンガポールに迫って来ている様子を示しているように感じられた。おばあさんのジグソーパズルが1ピースだけ足りないというのは、おばあさんにとっての世界に息子が欠けているということかな。

やさしさ

おじいさんのやさしさ。おばあさんが顔を写して見ないように鏡を隠す。おばあさんのために老人ホームを探す。海がよく見えて、海の向こうのマレーシア領も見えるところ。
シンガポール人のやさしさ。おばあさんが街を徘徊している場面で、たぶんおばあさん役の人が実際に街を歩いて、カメラは遠くにあってまわりの人たちにはわからないようになっていたようで、おばあさんが1人でふらふら歩いていると、路上の若い女性たちがそれを見て驚いて心配そうにしていた。シンガポール人は根はやさしい。

メシに当たる

おばあさんを引き取って家で夕食を食べているとき、母親が付き合っている相手が家に来ると言われて不機嫌になるエン。でも親に文句を言うわけにはいかない。エンは「ご飯が多すぎる」といって席を立つ。クー・エンヨウ監督の『鳥屋』でも、食卓で兄弟が口論していると、その父親はけんかを止めず、食べ物に「塩辛いな」と文句を言っていた。華人社会では食事時に不愉快になったらメシにあたるという決まりでもあるのだろうか。

マレーシア映画との関わり

この映画とマレーシア映画や監督との実際の関係はわからないけれど、Sandcastleを観ていて思い出したマレーシア映画のいくつか。
海から男が戻ってくる話はタン・チュイムイの『夏のない年』。
海岸で2人が座っている場面で凧が揚がっているのは清明節だから。ホー・ユーハンの『レインドッグ』やヤスミンの『ムクシン』の凧と重なる。
車のなかで手紙を読むのは『細い目』。車のバックミラー越しに移すのは『グブラ』。でも、同じようなシーンはたぶん他にもたくさんあるんだろうけど。
オープニングとエンディングで同じ歌を英語と華語で歌っているのは、『細い目』でオーキッドがジェイソンに頼んだ「詩を翻訳して、でもロマンチックさはなくさないで」を思い出させる。