「ゴールと口紅」――女々しく勝つ

都会のマレー人と言えば、マレーシア映画「ゴールと口紅」(Gol & Gincu)は何度観てもおもしろい。爽快で、観ると元気になる。活躍しているのは都会の女の子ばかりで、ときどき顔を出す男の子はどれもぱっとしないのだけれど、男が観ても楽しめる。
まずはあらすじ。

プトリはピンク色が大好きな都会っ子のマレー人。ボーイフレンドはサッカー選手のエディ。エディの施設応援団を名乗り、かいがいしくエディの世話をするのがプトリの幸せだ。エディの家族からも「留学前に婚約しちゃいなさい」と公認の仲だったけれど、ある日突然、「君は何一つ自分でできないので君といても退屈だ、僕はチアリーダーじゃなくてストライカーと付き合いたいんだ」とエディに振られてしまう。
エディを取り戻すためにストライカーになろうと思い立ち、スポーツセンターでフットサルの女子チームに飛び入り参加する。ところがそれは、「女の子はスポーツすると怪我するからやめといたら」というシャシャのもと、トーナメント優勝を目指して本気でフットサルを練習している強豪チームだった。しかも、シャシャはなんとエディの新しいガールフレンドだった。エディが「ストライカーと付き合いたい」と言ったのは例え話ではなかったのだ。
シャシャが夢にまで出て来るプトリ。ついに自分でフットサルのチームを結成することにした。でも集まってきたのは、フットサルの経験がなかったり、フットサルの経験はあるけれど「女の子がスポーツをするとは何てことざましょ」というお母さんから隠れて練習に来ていたりという女の子たち。コーチもいない。しかしプトリたちは、メンバーそれぞれが抱える障害を1つ1つ乗り越えていき、やがてトーナメントの日を迎える。

プトリは最後に成功をつかむけれど、決して「女らしさ」を棄てて男と対等に張り合って成功を収めるわけではない。プトリは物語の前半でみんなから「女らしさ」を批判的に見られるが、決してそれを改めず、むしろ「女らしさ」を積極的に取り入れてチームをまとめ上げ、成功に導いていく。
「女らしい」という言い方ではポジティブな意味にも取れるので、ここではまわりのみんながネガティブな評価を込めているという意味で「女々しい」と書くことにしよう。男に尽くすことで喜びを見出すプトリの生き方は、男からも女からも「女々しい」と言われていた。ところが、自分を振った男に思い知らせてやろうと思い立ったとき、それまでの「女々しい」自分を棄てて闘士になる、というように物語は進まない。その逆に、プトリは「女々しさ」をむしろ積極的に伸ばすことで成功を手に入れようとする。
「ゴールと口紅」の冒頭のシーンや音楽は「キューティー・ブロンド」を思い出させる。男を見返すために一念発起して最後に成功するというストーリーも「キューティー・ブロンド」に通じるものがある。おそらく何らかのインスパイアを受けて作られたのだろうが、これを「パクリだ」と笑っているだけではこの映画の本当のおもしろさを見逃すことになる。
肝心なのは、「キューティー・ブロンド」に何かを感じとったマレーシアの映画人たちが、それをもとに自分たちなりの物語をどのように語ろうとしたかということだ。だから、似ている部分ではなく、違う部分にこそ眼を向けるべきということになる。
2つの作品の最大の違いは、おそらく最後の成功のしかたにある。「キューティー・ブロンド」では、よくも悪くも女性が置かれている社会的な立場を利用することなく、男性と同じ土俵で同じ条件で勝負し、そこで勝つことで成功を手に入れた。これに対して「ゴールと口紅」では、「女々しい」と批判されたプトリは「女々しさ」(ただしプトリにとっては「自分らしさ」だろう)を失わず、むしろそれを発展させた上で成功をつかんでいる。
世間はネガティブな意味を込めて「女々しい」というかもしれないが、そのことは承知の上で、自分はそれにポジティブな意味を見出してその「女々しさ」を背負っていく、その上で成功するというプトリの生き方は「女々しく勝つ」とでも言えるだろうか。プトリのしなやかな力強さが好きだ。
世の中から男女の区別はこれからも決してなくならないだろうし、「男らしさ」「女らしさ」も、その内容が少し変わることはあるだろうけれど、ある日突然がらりと全面的に変わることはまず考えられない。となると、自分が好むと好まざるとにかかわらず、女に生まれたからには「女らしさ」という物言いから完全に逃れることはできない。この状況に対し、「女らしさ」が求められるなら求められるでけっこう、それはそれで積極的に引き受けて楽しんで、しかも「女らしさ」を維持したまま成功も手に入れよう、というのがプトリの物語だ。


「男らしさ」「女らしさ」という枠組に縛られない生き方を強調する試みにもいろいろなあり方がある。男と女の違いをあいまいにする手もあれば、男と女の枠は受け入れた上で、その中身を書き換えようとする手もある。「ゴールと口紅」にはそのいろいろな要素が入っているが、主人公のプトリに注目すれば後者の試みの1つだと言える。
主人公のプトリは、冒頭で「女らしい」女の子として描かれる。プトリ(姫)という名前がついているだけでなく、部屋はピンク系のかわいいものでいっぱいだし、デザインの授業ではピンクピンクした軍服のデザインを披露したりする。
これに対し、プトリ以外の登場人物は「女らしさ」とちょっと距離を置いた存在として描かれる。意地悪なライバル役のシャシャはフットサル・チームのエース・ストライカーで、ボーイフレンドのエディに対して「私のあなたのメイドじゃないの。メイドが必要ならお金を払って人を雇いなさい」と厳しい言葉を投げつける。シャシャの親友でプトリを助けることにもなるジーは、短髪でスポーティーな格好をして、男のような口調で話す。短髪と言えばジェイもそうだ。ジェイは、サッカー選手になりたかったけれど、「女の子はおしとやかに」というお母さんにサッカーを禁じられてしまい、女友達と遊んでいると嘘をついてフットサルに参加している。
プトリとそれ以外の登場人物の「女らしさ」をめぐる違いについては、中盤でのジーの「あんたってさあ、「オンナ」なんだよね」という台詞が象徴的だ。この台詞は英語だが、「オンナ」の部分だけマレー語でperempuan(女性)と言っていて、単に性別としての女性ではなく、批判を込めて「女らしい」と言っている(したがってジーは「女らしい」ことをよく思っていない)ことが伝わってくる。
また、ジーの台詞ほどではないけれど、シャシャもプトリとの初対面のとき、プトリがかわいらしく「プトリって呼んでね。てへ。」と挨拶したのに対し、「シャシャって呼んでね」とわざと同じ口調で返したのも、「おんなおんなしている」ことへの批判だし、自分はそれとは違うという思いが伝えられている。
そんなプトリは「女らしさ」を前面に出して問題を1つ1つ解決していく。ジェイがお母さんに「女の子がスポーツをするなんて」と止められたときには、ジェイのお母さんを招いてホームパーティーを開き、チームのみんなでおしとやかな女の子たちを演じ、こういう人たちとなら付き合ってもいいと許可を得た。このときマレー人の伝統的な遊具チョンカでこれ見よがしに遊んだりしてそれぞれがいかにもこてこての女の子を演じている様子がとてもおもしろいが、なかでもボーイッシュなジーが真っ赤な服をいやいや着せられて、「こんなかっこうして女の子みたい」と言いたげに照れているのがまたかわいらしくておもしろい。
(ちなみに、ジェイのお母さんがプトリの家に来たときにみんなが爆笑したのは、ジェイの本名がマレー語で「麗人」を意味するジュイタだとわかったため。「ジェイの本名はジュイタだって。腹いて〜」と大笑い。その話は入院中のジジにも伝わり、みんなでお見舞いしたときにも「ジュイタ」ネタで盛り上がっていた。)


ここまで書いてきたように、「ゴールと口紅」は基本的にマレーシアの女性をテーマにした映画だ。ところがそれは、これまでほかの映画でも見てきたのと同じように、「民族」をテーマにした映画と関心がちょうど重なっている。
これまでの話の繰り返しになるが、マレーシアの社会で「民族」とはどういう働きをしているのか。「独自の文化を持っている集団」という側面もあるが、「民族」はさらに広く政治・経済を含めて社会生活上のほとんどすべての面に関わっている。それをとても大雑把に表現すれば次のようになる。
世界からさまざまな人がやってくる土地という性格を持っていることから、「マレーシアの公認民族」を3つ決めて、「マレー人はマレー人らしく」「華人華人らしく」「インド人はインド人らしく」あるべきだし、そうである限りは、マレー人はマレー人として、華人華人として、インド人はインド人として、国や社会が制度や慣習で優遇や保護してくれる。
自分はマレー人として生まれたけれど「マレー人らしい」生き方はしたくない、という主張は、マレーシアでは少なくとも公式には決して認められない。また、マレー人、華人、インド人の各民族の枠を壊すような異民族間の恋愛・結婚も、当事者どうしの問題では済まず、家族・親戚から場合によっては民族間の問題に発展しかねない。
この仕組みは実は「民族」に限られない。「何らかの分類による集団に属す人は、その集団にふさわしい振る舞いをするべきであり、そしてその限りにおいてその集団に属す人として庇護される」という考え方は、たとえば「男性」「女性」についてもあてはまる。マレーシア社会(マレー人社会)には、女性はこのようにあるべしという規範がいくつもあり、女性はそのように振舞うことが求められるし、そのように振る舞う限りは女性として庇護の対象となる。
このような社会で居心地がいいと感じる人もいるし、枠をはめられることに対してちょっと居心地が悪いと感じる人もいる。問題なのは、マレーシアは民族にしろ性別にしろその他の分類にしろ、分類をきっちり決めて、「○○らしさ」をしっかり守るべきだという考え方がかなり強く、枠をはめられることに対する抵抗に対しては社会的にあまり寛容でないことだ。このことはマレーシアでは「民族」に関して顕著で、最近の「もの言うマレーシア映画」の多くが「民族」をどう描くかでさまざまな工夫と苦労を重ねているのもそのために他ならない。ただし、その工夫と苦労はそれぞれだ。
「細い目」などヤスミン監督の作品は、マレー人や華人という枠組を受け入れた上で、「マレー人らしさ」の中身を問い、「もう1つの姿」を描くことで「マレー人らしさ」を書きかえる試みだといえる。
「レインドッグ」などホー・ユーハン監督の作品は、マレー人や華人という枠組があることを受け入れた上で、現実の華人にはいろいろな人がいることを描き、「華人らしさ」を調整しようとしている。
「相撲ら!」は、マレー人や華人という枠組を取り払って物語を作ることで、「民族」を使わずにマレーシアを描く可能性を示している。
このように、「民族」ひとつ取っても、その分類があることを前提とするのかないことを前提とするのかなど、取り組み方はさまざまだ。同じように、性別についても、男女の区別のあいまいさに焦点を当てる方法もあれば、男女の区別は受け入れた上で「男らしさ」「女らしさ」を再考する方法もある。「ゴールと口紅」は後者の例ということになる。「民族」の話は出てこなくても、根っこのところで取り組んでいる課題は共通している。


ここでは物語を紹介する都合からプトリを中心に紹介したが、ライバル役のシャシャ、そして2人を支えるジーなど、「ゴールと口紅」には個性的で頼もしいキャラクターが多い。「細い目」でオーキッドを演じたシャリファ・アマニがジジ役で出ているが、ほかのキャラクターが強すぎてすっかりかすんでいる印象を与えるほどだ。
「ゴールと口紅」はテレビシリーズにもなり、今ではシーズン2が放映されているらしい。シーズン1をちょっと見た限りでは映画版ほどの切れはないような印象を受けたが、それはテレビと映画の違いもあるし、何よりも映画版の衝撃があまりに大きかったということなのだろう。彼女たちがテレビでどのように活躍するのか、それはそれで別の物語として興味深い。
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年8月20日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)