「相撲ら!」――「戦わない日本人」が出ているマレー映画

女性に見とれて車にぶつかるのはマレーシアの笑いの王道だ。どれだったか忘れたけれど、P.ラムリーの映画だったかでも見かけた記憶がある。ほかにも動物の臓器移植だとか、「相撲ら!」はマレーシア人の笑いのツボをよく押さえている。マレーシアの劇場だったらきっと観客がバカウケするだろうと思うと、「相撲ら!」を劇場で見られなかったのが残念だ。
「相撲ら!」(Sumo lah)の内容については原作・第二監督を担当した日本人の窪田夫妻のページ(http://japanmalaysia.at.webry.info/200704/article_4.html)を参照していただくとして、ここでは例によって私の関心に沿って紹介を。


実は、はじめのうち登場人物の民族性を把握するのにやや手間取った。馴れ馴れしく言い寄ってきた男に対するホンダ・シティ嬢の「言っとくけど、私は半分日本人よ」という台詞に始まるやりとりで、この2人はかつて恋人どうしだったけれど男の父親に反対されて別れてしまったこと、そしてその理由はシティに日本人の血が流れているためだったらしいことがうかがえる。だとすると怪しげな日本語を話すこの男はマレー人か、と思ったら、名前はなぜかアキラだった。アキラはマレー人なのか日本人なのかがしばらく気になってしまった。
でも、これは人を見るとまず民族が何かを知ろうとするマレーシアの「常識」に慣れた目で見ているためで、「相撲ら!」はこの「常識」を意図的に外していたことがじきにわかる。日本人の父親とマレー人の母親を持つシティが、君は日本人(Jepun)なのかマレー人(Melayu)なのかと尋ねられて、この2つを組み合わせてJelayuでもMelapunでもどっちでも、と答えている(英語の字幕ではJapanとMalayを合わせてJapalayとMalapanとしてあった)。
そう考えると、この映画は、登場人物の民族的な出自が明確でなくてもストーリーが通じることを身をもって示しているということでもある。現実のマレーシア社会を舞台にした映画でそういうメッセージを発しようとすれば華人やインド人を登場させないわけにはいかない。そうすると「マレー映画」性が薄まって国内での上映などに制限がかかり、届けたい観客に届きにくくなりかねない。外国で高い評価を得ることでマレーシアに「逆輸入」するという手もあるが、「相撲ら!」は、マレーシア社会にとって外来者である日本人をうまく利用することで、マレー映画の枠組をぎりぎりで維持しつつ、民族別でないマレーシア像を描いて見せた。マレーシア社会にとって外来者だからこそ、それを逆手にとってできる関わり方であり、この手があったかと本当に感心させられた。
そう考えて改めて見ると、自身が文化的混血者で民族性が一目ではわからないシンガポールのグルミット・シンや、マレーシア人ではなくタイ人のインティラ・チャロンプラを重要な役どころに起用して、あえてマレーシアらしさを薄くしながらもマレー映画に仕上げているところがこの映画のにくいところだ。
なお、窪田さんは「相撲ら!」を「マレー映画ではなくマレーシア映画」と言っている(http://aisa.ne.jp/musicraja/blog/index.php?eid=387)。多民族社会マレーシアのなかでマレー人だけを対象にした作品ではないということに加え、これまでのマレー映画の多くがやや安易な作りになっているとの批判を込めて「マレー映画ではない」と言っているということはよくわかる。でも私は、上に書いたように、マレー映画を内側から変えていく力を持った作品ということであえて「相撲ら!」を「マレー映画」と見たい。
主人公のラムリーは、職もなく金もなく、今日明日の食べ物をどうやって手に入れようか考えながら町を歩きまわり、小金や食べ物にありつくためにちょっとした思い付きをあれこれ試している。最近のマレー映画ではホワイトカラーのマレー人が主役になることが多いので忘れかけていたが、どこか懐かしい気がする姿だと思っていたら、P.ラムリーの映画によく出てきた姿だった。
P.ラムリーとは、言うまでもなく、マレー映画の全盛期を担った人物として、マレー人であるか否かを問わず知らない人のいない映画人だ。たとえば「Ragam P. Ramlee」のなかの短編では、一攫千金を狙って4桁当てくじを買おうとした男が、ひらめいた番号を忘れないように口で唱えながらくじ売り場に向かう途中で美女に見とれて番号を覚え間違えてしまい、本当は当たっていたはずの大金を逃すという話がある。美女に見とれて失敗しているとことも「相撲ら!」に通じるところがある。
そう考えれば、「相撲ら!」の主人公の名前がラムリーなのも決して偶然ではないだろう。私は「相撲ら!」がマレー映画を内側から変えようとする試みだと書いたが、正統マレー映画の流れを自覚的に受け継ごうとしている点で、「相撲ら!」が自らをマレー映画に位置づけているという見方は当たっていると言えるだろう。


さて、相撲の存在はマレーシアでもずっと前から十分に認知されている。テレビCMや新聞の広告で力士の格好が使われていることもよくある。でも、マレーシア人が積極的に相撲をする話はこれまであまり聞いたことがない。マレーシアの人々にとって、相撲とは関心はあるけれど自分たちが参加するものではないと思われていたふしがある。
その理由は、相撲が日本という異文化のものだからという理由からではなく、マレーシア人(特にマレー人)にとって縁遠い存在である「巨漢」が行う競技だと思われていたからではないかというのが私の推測だ。
歴史をさかのぼれば、アラブ人もヨーロッパ人も、マレーシア地域に外来文明をもたらした異邦人はみんな体が大きかった。そのことがマレー人たちに精神的な負い目を与えたのではないかというのも私の勝手な推測だが、「相撲ら!」でラムリーらが日本の力士を見て「大きいな」と尻込みしている場面もあるところを見るとそれほど外れてはいないように思う。もし私の推測が当たっているとすると、「相撲ら!」は、マレーシアの人々の相撲への心理的な距離感を縮める役割も果たしたことになる。
「チチャマン」のところでも同じようなことを書いたけれど、マレーシアの国家としての重要な関心事は、大国がひしめき合う国際社会で小国マレーシアがいかにして生き残り、しかも意味のある役割を演じることができるかということだ。このことは、マレーシアの人々の日常生活レベルでの、王族やら政治家やら企業家やらの大人物がたくさんいる社会で自分がいかにして生き残るか、そしてどのように意味のある役割を演じることができるか(つまり、どうやって成功するか)という関心事とちょうど重なっている。
マレーシアで相撲といえば巨漢どうしの力比べというイメージがあるけれど、ボレ寿司の3人はラムリーを除けば2人ともやせている。彼らを含むチームが勝ち進むことで、「相撲ら!」は、やせた力士でも勝てることを伝えてくれる。その理由は映画のなかでは必ずしも明示的に描かれていないけれど、練習中にホンダさんに教えてもらった相撲の精神と結び付けて理解するのが自然だろう。
相撲の精神と言えば、はじめのうちちょっと仕事をしただけですぐに給料を上げてくれとお願いする怠け者のラムリーに対し、ホンダさんがあれこれと諭す言葉がよい。階層による分業がはっきりしているマレーシアで、「掃除をするのも修行のうち」とはっきり伝えたのには思わず拍手喝采した。マレーシアでは理念を語れば黙ってついてくるというわけにはいかないので、相手が受け入れ可能な論理の枠内で自分の主張を言葉で伝えて教え諭さなければならない。ホンダさんはマレー人が納得しそうな説明をいろいろと与えていたけれど、どう伝えれば相手にわかってもらえるのかと実際にいろいろと悩んだ経験から出てきた台詞の数々なのだろう。


それと同時に重要なのは、日本からマレーシアに一方的に教えを垂れるという内容にはなっていないことだ。ボレ寿司の店舗が差し押さえられそうになって差し押さえ執行人とホンダさんたちが喧嘩になったとき、ラムリーが仲立ちに入って差し押さえに猶予が与えられる。そのとき、差し押さえ執行人がホンダさんに「人に頼みごとをするときには偉そうにするな、それがマレーシアのやり方だ」という意味の台詞を言っている。
マレーシアでは、第二次大戦中の日本占領期の軍人の思い出と重ねられて、日本人は怒りっぽくて偉そうに命令するというイメージがある。でもそういう人間関係の作り方ではマレーシアでは物事はうまくまわらない、頼みごとをするときにはそれなりに礼を尽くした態度を取るべきだ、というのはホンダさんひとりではなく日本人一般に向けられた台詞でもある。技術や精神など日本の良さをマレーシアに伝えようとすることは大いにけっこうだが、それを一方的に教えてやるという態度で臨むならそれには黙っちゃいないということだ。日本人であるないにかかわらず、この言葉はしっかり受け止めたい。
これと関連して特筆すべきことは、「相撲ら!」にマレーシアの映画史上これまでになかった新しい日本人像が登場したことだろう。これまでマレーシア映画(マレー映画)に出てくる日本人は、(全部見たわけではないが)そのほとんどが軍人か、サムライか、あるいは企業戦士かのいずれかだった。これらがどれも「戦う人」であるのはおそらく偶然ではない。それは、日本人がいつも何かと戦っているということではなく、マレーシアの人たちの目から見れば、日本人は他人と「戦う」という人間関係しか作れない、つまり、「自分が勝つか相手が勝つか、相手が得すれば自分がその分だけ損をする」という関係しか結べないと認識されていることの表れだろう。
それに対し、「相撲ら!」では、(マレーシアの人たちにとって)自分たちと「戦う」以外の関係を結ぶ存在として日本人が登場する。そこで描かれているのは、「相手に得をさせることで自分も結果として得をする」という関係だ。
マレーシア人とこのような関係を結ぶ日本人がマレーシア人の作るマレーシアの映画に描かれたということは、マレーシアに滞在する日本人が増えていろいろな日本人と日常的に接する機会が増えたということもあるのだろうけれど、それに加えて、この映画を作る過程で日本人といろいろとやり取りを重ねていく上で「戦い」ではない人間関係が築かれ、そのことが映画にも表われたのではないかと思う。
マレーシアでの劇場公開という土俵での取組には終わりがあるが、「相撲ら!」の制作を通じて築かれたものは、その取組の後も別の土俵でまだまだNokottaが続いているに違いない。それが今後「相撲ら!」を離れてどんな土俵でどんな取組となって表われるのか、マレーシアの映画を含むいろいろな土俵での活躍が楽しみだ。


映画の内容とは直接関係ない話ばかりで恐縮だが、ついでに書いておくと、「相撲ら!」は初級から中級者向けのマレー語の教材にいい。登場人物の多くやナレーターがマレー語をゆっくり丁寧に話しているため。いくつかのシーンを編集して「「相撲ら!」でマレー語ら!」なんていう教材ができたらぜひほしい。
 
タイトルの「Sumo-lah!」は、「スモウラー」としている人もいるし、文字通り訳せば「相撲しようぜ!」(あるいは「相撲やるべ」か)といった感じになるだろうけれど、ここでは福岡国際映画祭での邦題にならって「相撲ら!」とした。
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年8月6日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)