「ラブン」――都会暮らしに慣れたマレー人

ヤスミン・アフマド監督が「細い目」の前に作ったマレーシア映画「ラブン」。
マレー語で田舎のことを「カンポン」という。マレー人はカンポンが大好きだ。ハリラヤ・プアサ(断食月明け)の連休には「民族大移動」と呼ばれるほどの帰省ラッシュになるし、都会で暮らしている若者たちも、老後はカンポンに戻ってゆっくり暮らしたいと言ったりする。
その一方で、クアラルンプールなどの都会に出て暮らしているマレー人も少なくなく、彼らはこの数十年間で発展を遂げた都会の生活にすっかり慣れてしまっている。言葉の上では「カンポンはいい」と誰もが言うけれど、都会に慣れてしまったマレー人はカンポンに戻って本当に生活できるのか。もしかしたらカンポンでは暮らせない心と体になってしまっているのではないか。
このことは、都市のマレー人が仮に頭の中で思っていたとしても、決しておおっぴらには口にしないことだ。ところが、田舎暮らしは大変だ、逆に都会にだって親密な近所付き合いがないわけではない、むしろ都会で暮らしたほうが心穏やかに暮らせる、と言ってしまったのがヤスミン監督の「ラブン」(Rabun)だ。


ヤスミン監督の「細い目」「グブラ」「ムクシン」は、登場人物も設定も同じで、1つの作品での出来事が他の作品でも語られたりするので、シリーズものだと言える。この3作品の中心的な人物であるオーキッドに注目すると、「ムクシン」で10歳、「細い目」で17歳、そして「グブラ」で24歳になるので、時代順に並べればこの順になる。(ただし、私はこの3作品をオーキッドとジェイソンの恋物語として見たいので、並びは制作順と同じ「細い目」「グブラ」「ムクシン」の順になる。)
では、「ラブン」はこのどこに入るのか? 「ラブン」ではオーキッドは結婚していないので、その点を見れば「細い目」と「グブラ」の間に入るかもしれない。でも、「ラブン」は他の作品と登場人物も設定も共通点が多いものの、物語としての直接のつながりはない。なによりも、「ラブン」の主な登場人物はオーキッドではなくオーキッドの両親のアタンとアノムだ。「ラブン」は、オーキッドの物語の外伝(というより、アタンとアノムの物語の外伝)として捉えたほうがいいのではないか。
オーキッド役も、「細い目」「グブラ」のシャリファ・アマニではなく、「グブラ」でビラル(スラウ管理人)の奥さん役だったノルヒリアが「ラブン」のオーキッドを演じている。シャリファ・アマニのオーキッドもいいが、ノルヒリアのオーキッドもまた別のよさがある。ノルヒリアのオーキッドもまた1人のオーキッドとして受け止めるためにも、「細い目」や「グブラ」の世界と「ラブン」の世界は別物として、直接つながっていないと見たい。


さて、「ラブン」は、マレー人の中の田舎と都会の対立を積極的に描くことによって、「マレー人としてのまとまり」が幻想だとはっきりと言ってしまった。
ただし、「ラブン」のメッセージを「都市化の進むマレーシアで人々が伝統的なつながりを失ってばらばらになっている」という警告の類だと受け止めるとしたら、おそらくヤスミン監督の思惑とは反対のメッセージを受け取ることになる。人々の関係が希薄になったと嘆くのではなく、まとまるべき枠組が「マレー人」でなければならないという考え方に対する批判なのであって、それ以外の枠組でも人々のつながりやまとまりを否定しているわけではない。
「マレー人としてのまとまり」が幻想であるのは、「○○人」であれば自然にまとまりが生まれるはずという見方を否定しているのであって、逆に、「○○人」と括ることはできなくてもまとまりやつながりはありうるということでもある。こう見ると、「細い目」や「グブラ」などのオーキッドの物語のテーマとの重なりが見えてくるだろう。
都会のマレー人の間でも緊密なつながりはあるし、マレー人と華人の間でも心を許せる関係はありうることを、少しずつではあるけれど少しずつ重ねて描いているのはその表われだろう。
「ラブン」の物語で、その重ねられている1人が改築を請け負った華人エルビスだ。すっとぼけたマレー語といい、とてもいい味を出しているが、映画監督のホー・ユーハンだそうだ。「霧−Sanctuary」や「太陽雨/Rain Dogs」の監督で、「太陽雨/Rain Dogs」にヤスミン監督が出演しているのとクロスした形だ。「現実にはない(ことになっている)マレーシア」を「現実にあってもおかしくないマレーシア」として描く、しかもマレー人側と華人側のそれぞれの立場から描く際に、相手の作品の肝となる登場人物として互いに出演している。志を共有して、それぞれの場で活動している者どうしの関係がうかがえる。


おまけにもう1つ。カンポンでは、イノムの家の隣家に住むティマとその養子イェムが出てくる。イェムは仕事もせず実らぬ恋にうつつをぬかしている困った息子として描かれているが、高卒資格のための統一試験であるSPMに不合格で進学できず、よい就職口もみつからなかったとされている。SPMに合格するかどうかは重要な問題なのだ。これについては「グッバイ・ボーイズ」の項を参照。
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年7月25日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)