「月について」――ムスリム、月へ行く

「月について」(Tentang Bulan)は、今が旬のマレーシア映画だ。その理由は後で書くとして、まずはストーリー紹介から。結末も含めて全部紹介してしまおう。


空港に降り立つマレー人女性。高価そうな服やハンドバッグを身につけており、いかにも都会で成功を遂げて故郷に里帰りしたという雰囲気。風景がすっかり変わってしまったという顔であたりを見回しているところから、ずいぶん久しぶりの里帰りらしい。田舎道を走るタクシーの運転手に尋ねられ、「クアラルンプールで働いいて、結婚式があるので久しぶりに田舎に戻ってきた」と答えている。そして高価そうなハンドバッグから取り出したのが1枚の古い写真。20年前の仲良し小学生5人が写った写真だ。
ここで話が20年前に戻る。ところはマレーシアの北の端、プルリス州カンガル。写真の5人は、リーダー格のアスマウィ(マウィ)、太目で大食いのアブ、色黒で小さいイブラヒム、喘息ぎみのブディ、そして紅一点のイラ。5人はよく言い争いをするけれど仲が良く、しかも、言葉に出すわけではないけれど、男の子たちはみんなどこかでイラのことが気になっている。ところが当のイラは女の子扱いされるのが大嫌い。川での水浴びも一緒だし、サッカーをするのも一緒。仲間の男の子が悪ガキにいじめられているのを見ると真っ先に駆けつけて悪ガキに殴りかかる。夜のコーラン教室でも男女別に座るところを男の子の方に座り、おまえは男なのか女なのかと先生に怒られる始末。
コーラン教室からの帰り、満月を見ながら「大人になったら月に行きたいなあ」と言うマウィ。宇宙人いるかな、ロケットで行くのかな、などとみんなも遊び半分で月の話をする。すっかり遅くなって帰宅したイラに、こんな遅くまで男の子たちと出歩いていたのかとお父さんが怒ると、男の子も女の子も一緒でしょ、と口答えするイラ。
けんかしながらも仲のよい5人は、いつまでも友達であり続けると月に誓う。こうして末永く楽しく暮らすはずだったが、あるとき転入生のズリナがやってきたために話ががらっと変わってしまう。都会からやって来て、お父さんは車を持っていて、家ではいつもきれいな服を着て、人形を脇に抱えて遊んでいるズリナ。都会風に洗練されたズリナの魅力に、田舎町から出たことのない男の子は4人ともすっかりとろけてしまう。しかもズリナはモダンな都会っ子だっただけではなく、夜のコーラン教室では実にみごとにコーランを詠んでしまう。それじゃあ私も、とイラもコーラン詠みに挑戦するが、冒頭の1行詠んだだけでつっかえてしまう。イラにとってみれば、田舎対都会がイスラム教対西洋になるのではなく、西洋文明とイスラム文明が束になって都会からやってきたということになる。
いつも5人一緒だったけれど、ズリナの登場でイラは男の子たちに見向きもされなくなり、男の子たちはズリナに近づくためにそれぞれ個人プレーに走るようになる。そしてついにリーダー格のマウィがズリナとのデートにこぎつける。取り残されたイラは覚悟を決めて、これまで決して着たことのないピンクのワンピースを着てみるものの、「イラが女の子のかっこうしてるのはじめて見た」「気持ち悪い」と4人に言われて泣き帰る。
ちょうどそのころ、イラの家ではイラをクアラルンプールの全寮制の学校に入れる話が出ていた。そこに入れば将来の成功は保証されるが、今の友だちとは離れ離れになる。もっとも、「女の子の友だちもたくさんできるから」と言う母親は、男の子たちから遠ざける意味もあったのだろう。イラは転校することをマウィたちに伝えようとするが、イラが自転車で追いかけても4人とも走って逃げてしまい、なかなか伝えることができない。
そんななか、マウィはほんのちょっとだけイラのことをかわいそうに思いはじめる。しかも、イラがクアラルンプールに行ってしまうという噂も聞こえてきた。しかし、噂の真偽を尋ねようとマウィがイラの家に行ってみると、イラはちょうどクアラルンプールに向けて車で出発したところだった。ゴム園のなかを縫うように自転車を飛ばしてイラが乗る車を追いかけるマウィ。そんなアホなと思うほどの驚異の追い上げを見せるけれど、もうちょっとのところで追いつかず、イラを乗せた車は走り去ってしまう。
そして20年後。結婚式の会場前でタクシーから降りてきた冒頭の女性はイラだった。イラの視線の先にいるのは結婚式の主役である新郎新婦を含む5人。子ども時代の面影がほとんどないので、ぱっと見ただけでは誰が誰なのかわからない。1人1人紹介されていく。
まず新婦はズリナ。学校を出たあとは仕事につかず、結婚して主婦になる。気になる新郎が誰なのかは後まわしにして紹介が続く。喘息だったブディは医者になった。背が低くて色黒だったイブラヒムは、背がすっかり伸び、政治の道に進んで今では州議会議員になった。そして新郎は、ビジネスで成功して体もすっかり痩せたアブだ。では、残るマウィは? なんと、マレーシア初の宇宙飛行士になっていた。この5人にイラが加わり、6人で仲良しとなってめでたしめでたし。


さて、なぜこの映画が旬なのかといえば、改めて言うまでもなく、マレーシア初の宇宙飛行士が登場するからだ。独立50周年を迎えた2007年10月、初のマレーシア人宇宙飛行士が誕生する。10月10日のマレーシア時間午後9時22分に打ち上げが予定されているそうだ。
米ソの間で宇宙開発競争が激しかった1950年代、マレーシア(という国はまだなかったけれど)や近隣諸国のムスリムたちも、宇宙開発競争の行方を熱心に見守っていた。1957年10月にソ連による初の人工衛星スプートニクの打ち上げが成功すると、マレーシアでは「スプートニクの時代」という言い方がされるようになった。
それまでの時代は「アトムの時代」だった。もちろん鉄腕アトムのことではなく、広島と長崎に落とされた原子爆弾からの命名だ。「スプートニクの時代」も「アトムの時代」も、当時の最先端の科学技術を象徴するものからつけた名前だ。いずれも話は科学技術だけで終わらず、それを生み出す科学技術を手にする国民が世界的な影響力を及ぼすという政治経済の話ともつながっていた。「スプートニクの時代」が来たと人々が熱狂したのは、「アトムの時代」すなわちアメリカが最先端の科学技術を通じて世界への影響力を独占する時代の終わりを意味していたためだった。
むろん、アメリカにかわってソ連が世界を支配するという恐れもないわけではなかったけれど、東南アジアでこのニュースを見たムスリムたちにとっては、「ソ連が勝った」ことよりも「アメリカが負けた」ことへの期待の方がずっとずっと大きかった。ソ連が努力を重ねてアメリカを科学技術の面で出し抜くことができたということは、ムスリムも努力しだいで科学技術の水準を高め、それによって世界におけるプレゼンスを高めることも不可能ではないことになる。人々が「スプートニクの時代」と呼んだことの裏にはこのような熱い思いが込められていたのだった。まして、スプートニク打ち上げ成功のほぼ1ヶ月前に独立を達成したばかりだったマラヤ連邦では、科学技術を通じて世界におけるプレゼンスを高めることへの熱い思いはなおさらのことだったろう。
それからちょうど50年たった2007年10月、マレーシアから宇宙飛行士を出すという夢がついにかなう。これに先立って、マレーシアではムスリム宇宙飛行士の宇宙空間での礼拝や断食の作法などがいろいろ決められたという。ここには、この宇宙飛行プロジェクトがマレーシアという一国家を背負っているだけでなく、全世界のムスリムを代表して「ムスリムとして」宇宙飛行を行うのだという大きな使命を背負っている気迫を感じることができる。マレーシアは自前の宇宙ロケットを打ち上げるには至っていないけれど、今回の宇宙飛行が成功すれば、マレーシアにとって、そしてムスリム世界にとっても大きな一歩となることだろう。
(なお、報道によれば、マレーシア初の宇宙飛行士ムザファー・シュコル氏は、出発前に「これは小さな一歩だが、マレーシア人にとって大きな一歩となろう」とのコメントを残したらしい。これを見る限りでは「ムスリムとして」という面はあまり強調されていない。)


映画の話に戻る。最後に結婚式のシーンで登場する20年後の男の子たちは、起業家、医者、政治家と、いずれもマレーシアでの成功者のイメージの通りとなっている。ここで重要なポイントは、マレーシアでの成功者のイメージに宇宙飛行士が加わったということではなく、プルリスというマレーシア最北端の田舎町にいても成功者になれるというメッセージなのだろう。
ただし、そう考えると、「女のくせに男の子っぽい」イラの立場が危うくなる。男の子と同じ扱いを求めたイラは、コーラン教室の先生からも両親からも叱られ、挙句には自分の気持ちを押さえつけて女の子っぽい服を着てしまう。少なくとも映画の中では、男の子たちと同じ扱いを求めたイラは敗北したということになる。
その後、イラは都会に出て、勉強し、キャリアを重ね、おそらくその過程で男たちとも張りあい、そして経済的に成功したのだろうけれど、そんなイラをこの映画はどう評しているのか。イラはタクシーで結婚式場に着くと、「おつりは要らない」と運転手に告げている。ここには経済的に成功したことを描く以上のメッセージがこめられているような気がする。タクシーに乗っているということは誰も空港に迎えに来てくれなかったということだし、タクシーの運転手と客が擬似的に友だちになるマレーシアで、(助手席ではなく後部座席に座るのは女性だからありうるとしても)「おつりは要らない」というのは運転手を使用人扱いしていることにもなる。この場面を、マレーシア人(とくにマレー人)はどう見ているのだろうか。
普通の学校を出てお嫁さんになったズリナは明らかに好意的に描かれているが、ズリナとの対比でイラはどう受け止められたのか。映画の中でイラは最後に5人の友だちにあたたかく迎え入れられているが、観客たちによっても同じように受け入れられたのかがちょっと気になった。


「月について」では、アブの夢として劇中劇が挿入されている。ズリナがマウィによって囚われの身になっており、それをアブたち3人が救い出すが、救い出したとたんにズリナがイラに変わっており、アブがびっくりして目が醒めるという落ちになっている。
ここで興味深いのは、劇中劇でマウィがジュバ、アブがトゥアと呼ばれていることだ。そして囚われの身であるズリナはプトリ・グヌン・レダンと呼ばれている。マレー人の伝統的な衣装を身につけているところからも明らかに、ここで演じられているのはマラッカ王国時代のハン・トゥアとハン・ジュバの物語だ。マラッカのスルタンの臣下であるハン・トゥアとハン・ジュバの物語はマレーシアで繰り返し繰り返し演じられる古典的な物語で、P.ラムリーによる映画化もされている。
マラッカのスルタンの忠実な臣下ハン・トゥアが策略にはめられてスルタンの怒りを買い、スルタンはハン・トゥアの処刑を命ずるが、それを見かねたハン・トゥアの親友ハン・ジュバがスルタンに反逆すると、スルタンはハン・トゥアにハン・ジュバの討伐を命じ、ハン・トゥアはスルタンへの忠誠と仲間との友情のあいだで選択を迫られる。物語としてはハン・トゥアがクリス(短剣)を奪って勝利を収めるのだけれど、この物語を劇や映画にするときにハン・トゥアとハン・ジュバのどちらに肩入れして描くかは作品によって異なり、そこに時代性や製作スタッフのメッセージを見ることもできる。
「月について」の劇中劇では、ハン・トゥア役のアブがハン・ジュバ役のマウィを「反逆者」と呼び、クリスを奪って勝利を収める。映画の最後でズリナとアブが結婚しているということは、ハン・トゥアとプトリ・グヌン・レダンが結ばれたということになる。


アブが「ズリナと結婚したいなあ」と言うと、みんなが「お前は割礼しなかったから結婚できないだろ」とからかう。翌朝、アブがコーラン教室の先生の家を訪ねて「頼む、今すぐ割礼してくれ」と言うけれど、いざ先生が剃刀を研ぎ始めると怖くなって逃げてしまうというシーンがある。最後にズリナと結婚できたということはちゃんと割礼を済ませたということなのだろう。
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年10月10日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)