学会の時間

週末に行われた学会に参加した。私がのぞいたパネルでは、フロアからの質問者の何人かが鋭い質問を投げかけていた。その鋭さには「この話題ならどうして自分に声がかからないのか」という無言の主張が感じられた、というと深読みが過ぎるかもしれないけれど、それはともかく、いったん場が設定されたのならば、その場で自分が果たせる役まわりをきちんと演じようという関わり方が感じられた。

パネルの議論をとてもおおざっぱにまとめると、自分が所属するある「場」があって、その場のあり方にどうも納得がいかないと思ったとき、人はどのような態度をとるか、という話。ある社会では、「場」全体を何とかしようという思いが働き、誰もが「場」全体を変えるために働きかけようとする。別の社会では、全体の「場」はそのままでかまわなくて、それと別に自分たちで身近な小さな「場」を作って、それを自分たちに納得のいく「場」にしようとする。どちらがうまくいくかうまくいかないかではなく、それぞれが置かれた状況で課題にどう対応しようとしているかという方向に行きそうな話だった。
パネルの全体の議論は言葉の定義の方に流れてしまったので私としてはもう少し別の方向での議論を聞きたかったのだけれど、でもフロアを含めた参加者の臨み方がそのパネルでの議論と重なって見えたことはとても興味深かった。
まだ研究会としてはじまったばかりだということなので、今後の展開に大いに期待したい。そして、もし自分にもお声がかかったら何らかの役割が担えるような心づもりはしておきたい、と思ったパネルだった。


ある程度の年頃になると、学会に出るのは気をつかうようになるという。
わかりやすいのは就職の話。自分が落ちた公募で通った人と顔を合わせることになる。あるいは、自分が通った公募で落ちた人がいるかもしれないと思ったりする。当落や採否で言えば、就職以外にも受賞とかプロジェクト・助成金の採択とかいったこともそうだし、さらには学会のパネルやシンポにどうして報告者として入っていないのかという話になったりもする。でも、こういうことは考えてもしかたがない。そのことは映画『ラジオの時間』で学んだ。
全てが理想的な状態にならなければ話を進めないというのは1つの立場だろうが、それだと物事がまわらない。たとえ理想的でなくても物事を進めていくことが必要なことはある。毎回自分がスポットライトを浴びたいという思いは実現しないかもしれない。でも、誰かにスポットライトを当てる場を維持しなければ、自分がスポットライトに当たる機会もなくなってしまう。だから、今回は自分は舞台作りの番だと思って、批判も何も引き受ける覚悟を持って取りまとめ役になる人が出てくれるのはありがたい。そういった人たちが、いろいろな事情や条件があるなかでとり得る最善の選択をして、その結果として何らかの選択が出てくるのだから、出てきたものは出てきたものとして受け止めるしかない。満足しなければ文句は言うけれど、でも自分で舞台裏を務めたことがある人たちは、そうやって場が作られていることはみんなわかっている。
『ラジオの時間』では、参加者がお互いにいがみ合って、放送が中断され番組が成り立たなくなる寸前の危機に何度も陥るし、大ボスは結局最後までその状況がぜんぜんわかってなくて自分の保身のことだけ考えていたりするんだけれど、でもその場しのぎでもなんでもとにかく先に進めて、終わってみたらみんなけっこう楽しかった、という落ちになっている。入口ではなく出口が大事。終わって振り返って意義があったと思えるかどうか。それは途中の関わり方に関係している。


私の恩師はたいへんな人格者だと言われている。そう言われるだけのことはあり、長くそばで先生の姿を見てきて、理論の上ではどのようにふるまうべきか私にもだいぶわかってきた。もっとも、いろいろな局面で、先生ならこんな対応をするんだろうなあと思い、ちょっとだけやってみようかなと思ったりすることもあるけれど、でもどれも中途半端に終わるという経験ばかり積み重ねてきた。
お互いに相手の方が頭を下げないと話が進まないという態度をとると、それ以上話が進まなくなる。そんな局面でも自分から歩み寄って頭を下げて話を進めるなんてことはとでもできない。せいぜい自分から1回は相手に手をさしのばしてみる程度だ。
自分に関する噂話が耳に入ったとき、たとえ根拠がない噂でも他人から見た自分の評価なのだから真摯に受け止めて自分のあり方を振り返るなんてことはとてもできない。せいぜい噂の本人に直接確かめる程度だ。噂は発する人も噂される人も損をして、得をするのは噂をまわす人だけ。不満があるなら直接言った方がいいし、言わないなら何も言わない方がいい。
今回の学会では、久しぶりに大学時代の恩師と研究上の話をする機会をいただいた。あいかわらずストレートに教えてくれない言葉の裏を探ろうとしながら、もしかしたら今日は本当は研究とは違う方面で何か教えようとおもっていたのかなどと思ったりしたけれど、この日は深読みがそれ以上働かなかった。