「ロロ・ジョングランの歌声」

「ロロ・ジョングランの歌声」(松村美香、ダイヤモンド社、2009年)を読んだ。
ジャワ中部地震の取材で現地を訪れた女性記者が、7年前に東ティモールの独立紛争で取材中に殺された従兄の死の背景を少しずつ知っていく。
ミステリーには、読み終わった後でもう一度はじめから読みたくなる本がある。この本はミステリーとはやや違うかもしれないが、読み終わって謎解きがされた後でもう一度読み返したくなってしまう本だ。
もっとも、「謎解き」といっても、「謎」という形でこの本の中で言葉で書かれているわけではない。インドネシア東ティモールについて知識がある人には謎でも何でもない。でも、その部分にこそこの本に込められた強い思いが感じられるので、インドネシア東ティモールにあまりなじみのない人向けに「謎解き」という形で最後に紹介したい。


まずは全体的な感想から。
この本にはいろいろな要素が入っている。
主人公は、新聞社勤務で東ティモールで紛争に巻き込まれて死亡した従兄の稔のことを胸に抱きながら雑誌の編集記者になった菜々美。ジャワ中部地震の被災地を取材するなかで、援助する側とされる側のそれぞれから見た援助の表と裏を知り、また、フリーカメラマンの久野とのやり取りなどを通じて報道の裏と表を意識させられ、「国際協力とは何か、報道とは何か」について悩みながら仕事に取り組んでいく。従兄の稔が殺された背景が少しずつ明らかになるにつれて、援助や報道にまつわるいろいろな思惑が絡んでいることがわかってくる。デリカシーのない男性上司や冗談で口説いているのか本気なのかわからない久野、優しいんだけれどどこか掴みどころのない恋人の和樹などの男性と接するなかで、「女が働くこと」にまつわるあれこれも考えることになる。
そのどの要素もうまく引き立たせられたまま全体がうまくまとめあげられていて、とても読みやすい。それでいて、読みながら/読み終わってからあれこれ考えさせられる。


他人と関わるとき、好きだからとか手を差し伸べたいからとかいった普遍性の高い理由があるのと同時に、個人的な利害や関心があって関わることもある。見方によっては偽善と呼べるかもしれない。そんな状況で他人と関わることはよいのか悪いのか。この本ではこの問いが形をかえていろいろな場面で繰り返される。
例えば日本から開発途上国への援助。貧困や不平等をなくす手助けをしたいという理由もあるし、自分が持っている技術や製品を高く売りたいという思惑もある。では、そのような思惑を持った援助はよい援助なのか悪い援助なのか。
あるいは男女の付き合い。好きだから、気になるからという付き合いの裏で、相手に何らかの事情や思惑があって自分に近付いてきたのだとわかったときに相手を許せるか。
こういう話が重なって出てくる。


自分の関心にひきつけるならば、この本で扱っている内容は、研究者は対象社会とどのような関係を結ぶのかという問いと重なっている。
地震の被災地で見かける日本人なんて、受注するプロジェクトを探している援助関係者か報道関係者だという。何も下心なく調査しているような顔をして、実ははじめから自分たちの思惑があって、それを正当化するような調査や報道をしているのではないかという批判。そして、それがまわりまわって相手国からの要請という形をとってODAなどの巨額な援助計画となって出てくることへの批判。でも、それが相手国の人々の暮らしを確かによくしている部分があるという思い。
この本では研究者は直接描かれていないけれど、報道の葛藤の部分は研究者にも通じるところがある(はず)。報道関係者が他人から責められている台詞は、「記者」を「研究者」に、「取材」を「調査」に置き換えても話が成り立ってしまう。
「記者なんて、取材だけして何も生み出さない虚業だろ」
「自分では、社会に対して具体的な貢献など何もしない」
「偉そうに国際社会を論じるくせに、身近な人を幸せにできない」
外国の災害などの現場に来る日本人として、援助関係者と報道関係者にもう1つ加えるとしたら研究者だろう。下心なく客観的な調査研究をしているという顔をしながら、日本の将来の国際協力の方向性などをもっともらしい研究成果として政府に伝え、政策がそちら側に向かい、多額の予算がつく。その研究者と親しい人たちが作った団体や会社がそのプロジェクトを請け負っていたりする。研究者業界も他の業界と同じで、表や裏がいろいろある。そして、身近な人を幸せにできていなかったりする。


この本を読んでちょっと気になったこと。主人公の女性の男性に対する距離の取り方がこれまでの自分にあまりなじみのないものだった。相手のことが気になっているのにわざと拒絶してみたり、泣き散らしてみたり。うまく表現できないのだけれど、距離が近い感じがする。物理的だけでなく心理的にも。ときどき「生身の女」として相手と接しているというような。実際には主人公は恋人以外に体を許しているわけではないのだけれど、そして口や態度では相手をはねのけたりしているのだけれど、でも気持ちでは相手にしなだれかかっているような雰囲気を感じてしまう。世の女性の多くはこんな感じで、女性読者の一般的な気持ちがうまく描かれているということだろうか。それとも企業の第一線で活躍するおじさまたちの好みにあわせているのだろうか。そういう場面になるたびに捉えどころがないような印象を受けたのだが、これはおじさまたちに手にとってもらうための戦略だと思いたい。もちろん好みの問題で、もしかしたら私がこの本の最大の味わいの部分を楽しめていないだけなのかもしれないが。(ついでにいうと、このあいだNHKではじまった「風に舞いあがるビニールシート」でも同じようなことを感じた。)


インドネシア東ティモールに関する部分は、事前の知識がない人でもわかるように要所要所で的確な紹介がされているのでとてもわかりやすい。特によかったのは、インドネシアからの独立に対する賛成と反対のあいだで揺れる東ティモールの住民たちの話だった。物流などの経済的側面から自分たちの生活をよくする方向を選ぼうとしている様子が描かれていて、ナショナリズムによる独立運動などと安易に書かれていないので信頼度がとても高まった。
この本は学術論文ではないので具体的な事例について細かいコメントをするのは野暮かもしれないけれど、この本の価値を低めるものではないだろうから2つコメント。
1960年代の共産主義社会主義イデオロギーへの期待が高まったという話で、「王族や宗教も否定した平等な世界」とあるけれど、インドネシアではイスラム教徒がたくさん共産党に参加していた。宗教を否定しないのがインドネシア式の共産主義だったのでは?
もう1つは、ミナンカバウ人は母系制で財産は女が受け継ぐという話。それはそうだけれど、だからといって男は用なしというわけではない。財産の処分権は男が握っていたりする。全ての男が用なしなのではなく、他の多くの社会で力を持っている「夫」という男が力を持っていない(でも別の立場の男が力を持っている)ということでは?(もっとも、「女が働くこと」の諸相を描くというこの本のもう1つのテーマから考えれば、著者はそのことはわかっていて、あえてアグスに「用なし夫」を演じさせていると考えるべきかもしれない。)


さて、最後に、この本の「謎解き」について。
この本は、読めば読むほど熱い熱い想いが伝わってくる。誰の誰に対する想いなのか。
この本にはインドネシア支局の契約社員であるアグスという男性が出てきて菜々美の取材を手伝う。インドネシア東ティモールに馴染みのある人には言うまでもないことだが、アグスというのは「暗黒の9月」と呼ばれた1999年9月、東ティモールの独立紛争を取材中に襲撃されて殺されたインドネシア人ジャーナリストの名前だ。教会のシスターたちが食料を運ぶ車に同乗して襲撃されたことや、遺していた取材メモが後で発表されたことなど、この本の稔と重なっている部分が多い。
この本には、稔の死について調べる物語の背景のひとコマのように、民兵による襲撃事件の裁判が行われていることがさりげなく書かれている。この本は稔について書くことでアグスの物語を描いているのだけれど、稔のことを直接書いていない周囲の様子を描いているときも、現実社会のアグスの人生が決して風化していないと訴えている。この本には過去のできごとへの思いから難民キャンプに留まって活動を続けている礼子が出てくるが、何かに殉じたかの印象を与えるような礼子の姿に、アグスのことを書いている著者の姿が重なって見えてくる。
アグスの物語を稔として語る一方で、著者はこの本の中でアグスを別の人物として生き返らせて、インドネシアのジャーナリズムのなかで活躍の場を与えている。インドネシアのジャーナリズムに対する厳しい批判を口にさせたり、菜々美が稔の死の背景にたどりつくのを導かせたりしている。菜々美が稔の死の背景を調べてあれこれ動いているとき、稔の昔の写真のことを教えてくれたりと、アグスは要所要所で稔探しに関わってくる。
もしこのアグスが東ティモールでたおれた稔=アグスと重なる存在なのだとしたら、アグスは自分の死の背景を探し求める菜々美のそばで手助けしていたことになる。それぞれの場面でアグスは稔を探す菜々美をどんな気持ちで導いていたのか。アグスと菜々美の関係をもう一度読み直してみたくなる。そこに著者が込めたアグス=稔への想いを想像しながら。
「稔の人生は、そんなふうに風化していくほどのものだったのか。」
最初に読んだときにはあっさり読み飛ばしていた何気ない記述に熱い想いが込められていたことに気づき、どきりとさせられる。