アチェ映画「Silent after War」「Tsunami Song」

アチェ人によるアチェを題材としたドキュメンタリー映画「Silent after War」と「Tsunami Song」の2つを観た。
本来は「Silent after War」の上映会だったのだけれど、主宰者のご好意で、同じ監督による「Tsunami Song」も観せていただいた。この2つがちょうどよい組み合わせだった。
5月23日:ドキュメンタリー映画「Silent After War」&「語らずに死ねるか」上映会 インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)/ウェブリブログ


「Silent after War」
舞台はアチェ州ベネル・ムリア県。この地方は内陸部の高原地域で、コーヒー栽培などで知られている。内陸部なので2004年のスマトラ沖地震津波の影響は全く受けなかったけれど、それに先立つ30年に及ぶインドネシア国軍と独立派(GAM)の紛争が続いていた地域で、津波を契機にインドネシア政府とGAMの間で和平合意が結ばれたため、結果として津波を契機に社会の様子が大きく変わった。しかし、表面上の再建は進むけれど、紛争中に人びとが受けた苦しみはまるでなかったかのように和解や復興が進められており、人びとの心の問題はまだ解消されていない。
この映画では3人の女性に焦点を当てて、それぞれ紛争中に受けたことを語ってもらっている。そこでは、「インドネシア国軍(あるいはジャカルタ中央政府)がアチェの人びとを搾取・抑圧しているためにアチェの人びとが立ちあがり、GAMに加わってインドネシア政府に抵抗した」という図式が積極的に否定されている。3人の中にはGAM側についた経験からそのような語り方をする人もいるけれど、3人の話を並べることで、インドネシア国軍とGAMのどちらも救世主ではなく、人びとはその両方から苦しめられており、状況によっては身を守るためにそのどちらかにつかざるを得ない状況だったことがストレートに描かれている。この構図は以前から一部で指摘されていたけれど、アチェ人が発表したもののなかでこれほどはっきりと語られたことはなかったかもしれない。
特に心に残った話は、あるときGAMと思われる武装勢力が家を訪れ、夫を連行しようとしたのでやめてくれと懇願したところ、ちょうどそこに出てきた小さな息子が身代りに捕まえられ、夫は解放されたけれど子どもが連れ去られてしまったという話だった。それ以来息子の消息はわからないという。おそらくGAMの兵士として訓練を受け、戦闘に加わったりしたのだろう。GAM兵士には、このように帰る場所がない状況にさせられて活動に参加させられていた人もいるということがうかがえる。
もう1人の女性は、家族がGAM兵士との疑いをかけられて殺害された。撮影隊が墓に案内されると、そこは一面の草むらで、その一画に水をかけて清め、雑草をむしっていた。墓碑も何もなく、墓だと言われなければそれが墓だと気付かない。
この女性は、家族の遺体が病院にあると聞いて、それを引き取りに行き、家に連れ帰って墓を作って埋葬したという。ただし、その墓がどこにあるかがわかれば、GAM兵士の墓であると言われ、墓に何をされるかわからない。だから自分たちだけにわかるような形で墓を作り、ひっそりと守ってきた。
ただし、遺体を引き取って埋葬することができたこの女性は、紛争で家族を失ったアチェの人たちの中でも「幸運」な方だ。紛争中のアチェでは、家族の遺体が発見されても、それを引き取って葬ることは事実上できなかった。GAMのゲリラとの疑いをかけられて殺害された場合、遺体を引き取りに行けば、今度は家族がGAMのシンパであると疑われることになる。だから、行方不明になった家族の遺体がどこかで発見されたと聞いても、それを放置せざるをえなかった。


Tsunami Song」
こちらはアチェ西海岸の沿岸部で、津波で大きな被害を受けた地域。制作時期としては「Silent after War」よりも前。2004年12月の津波の直後、アチェ出身で音楽に関心がある監督たちが、アチェの西海岸の被災地を訪問して被災者たちが伝統的な音楽を取り戻そうとしている様子を描いたドキュメンタリー映画
アチェの人びとは文化芸術を嗜むことでよく知られており、特に西海岸部では村ごとに歌と踊りがあることで知られていた。しかし、それらの多くは津波前に失われていた。津波前に歌と踊りを維持していた村として撮影隊が訪問できたのは3つの村だった。それぞれの村には村長がいるが、村長と別に慣習的な指導者がいて、この指導者がときどきの世相を織り込んだ歌を歌い、それにあわせて村の男たちが踊る。漁村では男たちが共同作業をする上で統率者が必要で、そのもとで村の男たちがまとまって作業していた。だから、この歌は、村人たちが小さいころから聞いて馴染んでいるという意味ではなく、村の他の男たちと共同作業する鍵となっているという意味で、村のアイデンティティの拠り所となっている。
かつては慣習上の指導者が統率していたけれど、行政職として村長が任命されることで、あるいは漁業以外の生業につく村人が増えることで、村によっては慣習上の指導者の役割が低下し、その結果として歌が失われていった。
1つの村では、慣習上の指導者が津波で亡くなった。別の村では、踊っていた男たちの半数が亡くなった。
また歌を歌うのか、歌うとしたら誰が歌うのかを生き残った村人たちが相談する。あの人は歌えそうだと言われる人も、自分はもう歌いたくないという。じゃあ自分が歌おうかと名乗った若者に対して、ちょっと歌わせてみて、歌えないじゃないかと却下する。このやり取りからも明らかなように、ここで行われているのは、伝統芸能伝統芸能として復活させるという話ではなく、被災後に誰が精神的な指揮をとって復興を進めていくのかという意思調整にほかならない。


「Silent after War」は女性に焦点を当てた物語で、「Tsunami Song」では歌や踊りに参加するのは男だけだ。
女性をエンパワーしたいとか、あるいはスポンサーの意向なども背景にあるのだろうけれど、2つの映画を並べてみることで「Silent after War」で女性に語らせていることの意義が浮かび上がってくる。
アチェだけでなく広く男社会に見られることかもしれないけれど、男が発言すると、その発言はその男が所属するコミュニティで何らかの位置づけを与えられてしまう。他の男から、自分の派閥に入っているか、それとも対立派閥に入っているかという見方をされてしまう。紛争下のアチェでは、インドネシア国軍とGAMという2つの武装勢力が対立しており、男たちはどちらにつくのかが常に問われる状況があった。和平後はインドネシア政府と独立派という構図はなくなり、もう少し複雑な勢力地図になったけれど、やはりアチェ社会におけるいくつかの勢力のなかに位置づけられてしまう。
Tsunami Song」は村の男たちをどう束ねるかという話だ。束ねられた男たちの意向は慣習的指導者の歌によって代表して表明される。村の男の一員であるためには、その村の歌にあわせて踊らなければならない。これほどまでに、男たちはどうやっても社会的に位置づけられてしまう存在なのだろうか。
これに対して「Silent after War」では、女たちの声を社会に適切に位置づけようとする試みについても紹介されていたものの、現状では女たちの声は社会の中に位置づけるべきものとされておらず、そのため語らせやすいという面があったのかもしれない。そのことは逆に、津波後・和平合意後のアチェにおいて、インドネシア国軍対GAMという対立の構図から解放されたはずの男たちが今度は別の勢力地図の中に位置づけられてしまい、それを離れて個人として語ることがなお難しい状況が生じているということかもしれない。
「Silent after War」とは、津波を契機とした和平合意によって和平と復興がもたらされたけれど、30年に及ぶ紛争中に人びと(特に家族を失った女性たち)の心の問題は解決しておらず、しかしそのことについて責任を負うべき人々は誰も口を開こうとしないという意味のタイトルなのだろうけれど、それと同時に、和平合意後のアチェでなお人びと(特に男たち)が勢力地図に位置づけられて個人として発言できない状況に置かれていることも意味しているのかもしれない。
追記.「Silence after War」かと思っていたら「Silent after War」だったので訂正した。