アチェ津波4周年(2) 津波犠牲者の弔い方

サフィラちゃんの店

12月26日、アチェ津波犠牲者の追悼式典が行われた。バンダアチェでは、海岸近くの集団埋葬地で式典が行われ、生き残った人々が亡くなった人たちのためにコーランを詠んだ。
この様子は「共同墓地で追悼式」と語られたりする。それが間違いだというつもりはないけれど、私はこれを共同墓地とは呼ばず、集団埋葬地や集合埋葬地と呼ぶことにしている。亡くなった人の名前と命日を記した墓碑が置けないなど、アチェの人々にとって墓地として機能していないからだ。
墓地ではなく埋葬地という話は、1年前の記事だが以下のページにも書かれている。
http://homepage2.nifty.com/jams/aceh_3years.html


上の記事では、集団埋葬地から遺体を掘り起こして墓地に埋葬し直す人たちの話も紹介されている。津波から4年目の今回も、バンダアチェ周辺の墓地で、2004年12月26日を命日としている新しい墓碑がいくつか増えていた。その一方で、同じ墓地の敷地内に、埋葬用の穴が掘ったままの状態になっているところもある。遺体を探して埋葬するためと穴を掘って、もう1年以上もそのままになっている。この穴が埋まらない限り、遺族の弔いは終わらないのかもしれない。
被災から4年経ち、大型土木工事としての復興事業は終わりに向かっている。アチェの人々は、表向きは過去の津波ではなく将来のことを気にして日々暮らしているように見える。ただし、津波で亡くなった人たちを自分たちの思う方法で弔うことはようやく始まったばかりだ。


バンダアチェの西の郊外に、モスク以外の建物が津波ですっかり流されたランプウ地区がある。トルコ赤新月社が700戸の復興住宅を供与して、「トルコ村」として知られている。モスクはトルコ赤新月社によって補修されたけれど、一部で地震津波で崩れたままでの様子を残しており、訪れた人に地震津波のことを思い出させる役割を果たしている。
トルコ村の復興住宅は整然としているために人気が高いけれど、入居率が高くないため、「復興住宅に空き家が多い」と報じられたりもする。村の中に店がまだ少なく、町まで離れていて買い物などに不便だというのが空き家が多い理由の1つに挙げられている。


4ヵ月ぶりにトルコ村を訪問すると、モスクの正面に店ができていた。サフィラという名前の店で、2軒横につながった形で、向かって左手が食べ物や飲み物などの雑貨屋、右手が服屋になっている。
観光コースの1つとなっているトルコ村のモスクの正面に雑貨屋を開くなんて、繁盛しそうだなと思ってのぞいてみると、2軒の店番は1人しかいなくて、ふだんは鍵をかけて閉めている。
服屋に入れてもらうと、アチェ特産の刺繍入りの服やバッグなどが飾られていた。別の一角には子ども服も置かれていたけれど、これはアチェ刺繍ではない。ちょっとかわいい子ども服で、大きな町ならどこでも売っていそうなので、わざわざこの場所を訪れる観光客が買うとはあまり思えない。外から見るとガラス張りの店内に花が並べてあってきれいだけれど、自分が買うものはあまりないという印象を受けた。
店のいちばん奥に、額に入った女の子の大きな写真が飾ってあった。写真には、「2004年12月の津波で亡くなった私たちの一人娘サフィラ」と書かれていた。


店番の人はそれ以上教えてくれなかったけれど、それで深読みの筋がつながった。
この店の名前はサフィラちゃんの名前をとってつけられている。服屋と雑貨屋であるのは理由がある。服屋は、もうサフィラちゃんに着せてあげられない服を並べている。服のほかにアクセサリーやバッグなども一通り揃っていることや、子ども服はアチェ刺繍でないのでおみやげ物としてあまり売れないように思ったことも、サフィラちゃんに供えているものだと考えればよくわかる。雑貨屋は、サフィラちゃんに食べ物と飲み物を切らさないようにと並べている。
サフィラちゃんの名前と命日を記した額入りの写真は墓碑だ。店内に花がきれいに飾られているのも、この店全体がサフィラちゃんの「墓地」だから。
亡くなった人の弔い方は人それぞれだ。これまでは、復興事業が進むなか、政府主催の追悼式典などでみんな一緒に追悼するほかなかった。被災から4年経ち、復興事業が一通り終わりに向かいつつあるいま、アチェの人たちは思い思いの方法で亡くなった人を弔おうとしている。