インドネシア映画にみる愛と結婚

「21世紀のインドネシア映画にみる愛と結婚」という公開講座があったので聞きに行った。インドネシア映画の現状をまとめた上で、「愛と結婚」のさまざまな形を描いた3つの作品が紹介された。会場にはいろいろな背景の人が来ていたようで、誰にでも満足してもらえるような話をするのは大変そうだと講師の先生が言っていたけれど、映像もあわせて見せてもらえたので話はわかりやすく、参加してとても得した気分になった。最近いろいろなところで東南アジアの映画を観せてもらえる機会が増えているけれど、それをどう観るのかを地域の専門家に解説してもらったり観た人どうしで簡単に感想を交換したりする機会があってもいいように思った。


さて、講座で紹介されたのはニア・ディナタ監督の『アリサン!』と『分かちあう愛』、そしてハヌン・ブラマンティヨ監督の『アヤアヤ・チンタ』。(『アヤアヤ・チンタ』は『愛のきざし』という訳が紹介されていた。)
講座では『アリサン!』がゲイ映画で『分かちあう愛』と『アヤアヤ・チンタ』が一夫多妻を扱っているのでそちら方面の話が中心になったけれど、話を聞いていて思ったのは、スハルト大統領という「父」亡き後のインドネシア社会を人々がどう生きるかという物語として読めるのかなということ。紹介されたのはいずれも21世紀になってから、つまり長期政権のスハルト体制が1998年に終わった後のこと。だから時期としてもちょうどあう。
インドネシアの専門家からすれば「常識」の範囲内かもしれないけれど、せっかくなのでメモしておこう。(実は『アリサン!』は途中までしか観ていないのですっとぼけたことを書くことになるかも。誰か『アリサン!』のゆっくりしゃべるバージョンを作ってほしい。)


はじめにインドネシアの恋愛、結婚、家族についておおざっぱにまとめておく。インドネシアでは興味深いことに社会の仕組みが家族関係を示す言葉で語られる。職場のボスはbapak(父)。子分はanak(子)を使ってanak buah。職場が同じ人たちは職員の家族も含めて大家族(keluarga besar)。国で考えれば、バパ(bapak)は政府=大統領、アナックは国民ということにもなる。言葉の上では正確にはバパ(父)はアナック(子)とセットになっていて、夫と妻の関係とは違うんだけれど、以下では話を簡単にするためにバパを夫・父、アナックを妻・子としてしまう。
バパ(父=ボス)はアナック(子=部下)を守る存在。生まれたばかりの頃は父親に守ってもらい、大人になったら、女なら夫に守ってもらうし、男なら(職場のバパに守ってもらいながら)妻と子を守る。結婚前は父が守ってくれるのだけれど、女の子は学校など家の外の世界では自分を守ってくれる存在が必要になる。これが恋人。
となれば、結婚とは、夫にとっては妻子を守り、妻にとっては夫を支えるユニットを作ることで、そこで大事なのは子ども(特に男の子)を産んで家系を継ぐこと。そのため、家系を継ぐという縛りから解放されたい人たちも出てくる。特に家系にこだわる民族で意識されるのかもしれない。『アリサン!』でゲイであることに悩んでいるのはバタック人だったし、『空を飛びたい盲目のブタ』では女が家系を継げないと言っていたのは中華系だった。
こういう背景を押さえておかないと、都市化が進んだ社会ではどこの国でもゲイや一夫多妻(愛人)が見られるという話で終えてしまってはせっかくの話がもったいない。


以下、3つの映画を紹介。いずれも講座でいただいた資料を参照させていただいた。
『アリサン!』は、アリサン(互助会)に集う3人の旧友を中心に、首都ジャカルタに住む裕福な30代のニューリッチの生活を描いた映画。
建築家であるバタック人サクティは自分がゲイであることに苦しみ、心理セラピーを受けていた。インテリア・デザイナーのメイメイは子どもができないことに悩んでいた。しばしば雑誌に登場する名士アンディエンは夫との不和を抱えていた。
これはそのまま、「夫・父」と「妻・子」の関係が作れずに混乱するという話。ゲイというのはバパ(夫・父)にならないという話だし、不妊はアナック(子)が作れないということだし、夫婦の不仲はバパとアナック(正確にはアナックじゃなくてイブ(妻・母)だけど)の不仲。ということで、バパ(スハルト大統領)が亡くなった後のアナック(国民)たちの混乱を描いている。


続いて『分かちあう愛』は、オムニバス形式で現代インドネシアにおける一夫多妻制を取り上げた映画。
産婦人科医サルマとその息子を中心に、次々と若い女性を妻とする不動産業者で政治家を描く第一話。三人の妻とその子どもたちと1つ屋根の下に暮らす映画会社の運転手を描く第二話。中華料理店の店長とその愛人になったウェイトレスを取り上げた第三話。
興味深いのがそれぞれの顛末。第一話では、最終的に妻と息子が一夫多妻を受け入れる形になる。夫は病死し、妻たちはそれぞれの暮らしを営む。第二話では、2番目の妻と3番目の妻が駆け落ちして一緒に暮らすようになる。第三話では、店長がウェイトレスを愛人として囲っていることが妻に見つかり、ウェイトレスは店長から手切れ金を受け取って1人で暮らし始める。
大バパ(スハルト、あるいはそれを継いで国民を守り導いてくれる政府=大統領)の不在にどう対応するか。第一話ではバパが守るという仕組を小さな枠組みで受け入れる、第二話では妻=国民どうしでコミュニティを作ってバパと別に暮らす、第三話ではバパには頼らず金だけに頼って暮らす。


そして『アヤアヤ・チンタ』。
ここでも何度か内容を紹介したけれど、あらためて短く紹介するとこんな感じになる。
カイロのアズハル大学に留学しているインドネシアムスリムのファハリ。下宿の上の階に住むマリアはコプト教徒の女性。マリアは献身的にファハリに尽くすが、ファハリはマリアを運命の人とは思わなかった。
電車の中でエジプト人に難癖をつけられて絡まれているアメリカ人女性記者を助けようとしてファハリがアイシャと知り合う。アイシャはドイツ国籍のトルコ系ムスリム。アイシャはファハリを夫にしようと叔父に仲介を頼む。ファハリはアイシャを運命の人だと思い、妻にする。
失意のマリアは交通事故に遭って意識を失い入院する。ファハリは別の女性に逆恨みされて無実の罪を着せられて投獄され、マリアの証言がないと死刑になる恐れがある。ファハリの子を宿したアイシャはファハリを救うために奔走し、ファハリを連れ出す許可を得てマリアのいる病院に連れて行く。危篤状態のマリアを覚醒させるため、アイシャの求めでファハリはマリアを第二夫人に迎える。
覚醒したマリアの証言によって釈放されたファハリはアイシャとマリアと3人の暮らしを始めるが、2人の妻をどう扱うべきか悩む。病弱だったマリアは再び病に倒れ、死の淵でファハリに頼んでイスラム教に改宗させてもらう。マリアを見送り、アイシャは子を産んでファハリと暮らす。
さて、突っ込みどころはいろいろあるのだけれど、ここでの話と関連して注目したいのは、貧乏学生のファハリが富裕な家庭出身のアイシャとの新婚生活のなかで「夫が妻に養われていること」への居心地の悪さを語っていること。
世帯主になったのに自分には何もできない非力さに苛立っている様子が描かれる。でも、非力なのはこの場面だけではない。振り返ってみれば、ファハリはアイシャとの関係でもマリアとの関係でも自分からは何一つ働きかけようとしなかった。
アイシャとの結婚はアイシャから働きかけたもの。冤罪で捕まったファハリの無罪証明はアイシャがすべて手配した。マリアを覚醒させるためにマリアを第二夫人に迎えるときも、ファハリは何もせず、アイシャに「結婚しなさい」と言わせている。
マリアに対しても同じ。アイシャとマリアの板挟みで困ったなという顔をするだけで、マリアにあれこれ悩ませる。最後の最後でも、死にゆくマリアに対して、せめて天国で一緒に会えるようにマリアに改宗を求めるでもなく、マリアは自分から改宗をファハリにお願いする。
形としてバパは存在するけれど、ファハリはバパとしてまったく機能していない。だからマリアもアイシャも自分の意思で自分の生き方/死に方を決めることになる。
これはどういうことか。バパはちょっと間抜けなまじめな人がいい、としか理解できない。これは、バパは国民を守り、力強く導いてくれる人がいいという考え方への強烈なアンチテーゼだ。バパに守ってもらうのではなく、形の上でバパとして担ぎあげておいて、そこで自分がどう生きるかが重要だ、という話。
『分かちあう愛』ではバパに頼らずに生きる道が示されていたけれど、ここではバパを1人養っておくという感じか。アイシャはファハリを守り抜いたけれど、それは自分の夫としてではなく、自分の子どもの父親としてということなのか。


ちょっと話がそれるけれど、『アヤアヤ・チンタ』がどうして大ヒットしたのかという話が出たので改めて考えてみた。『アヤアヤ・チンタ』の謎の1つは、どうしてエジプト人をあそこまで非合理的で野蛮な人として描くのかということ。観ればわかるけれどとにかくひどい描き方をしている。
『アヤアヤ・チンタ』にはイスラム色の強いシーンがたくさん出てくるけれど、あれをひっくるめて「過激なイスラム教」と捉えるとよく見えてこない。『アヤアヤ・チンタ』には、穏健で心優しいイスラム教徒と過激で野蛮なイスラム教徒が両方出てくる。前者はファハリで後者がエジプト人。ファハリが(したがってインドネシア人が)穏健で心優しいイスラム教徒であるということを強調しようとしていて、それを引き立てるためにアラブ中東のイスラム教徒の過激さや野蛮さを強調していると見るべきだろう。
そう考えると、『アヤアヤ・チンタ』は、インドネシアムスリムたちが、自分たちは中東のムスリムたちとは違うんだということを確認できる物語になっていて、そのあたりが大ヒットの背景の1つなんだろうと思う。この映画にヒットに気をよくしたユドヨノ大統領が「これからはインドネシアイスラム系の映画を中東に売り込むぞ」とイスラム諸国の外交団を招いてこの映画の上映会をしたそうだけれど、招かれたお客たちはどんな気持ちだったのかちょっと心配になる。