1マレーシア映画「Jomlah C.I.U.M.」

そういう括りがあるわけではないが、「1マレーシア映画」とまとめてしまいたくなるような映画を最近立て続けに観た。「Jomlah C.I.U.M.」と「Setem」。


「Jomlah C.I.U.M.」は、多宗教社会マレーシアを描いたと一部で話題になった「Pensil」の監督による作品。まことに失礼ながら、マレーシア映画の「おバカ映画賞」があったら大賞にノミネートしたい映画だった。でも作っている人と、そして観ている人の多くはそんなことを思わずに積極的に評価するんだろうなと思えるところが頭を抱えてしまう。その内容についてはあとで。ここでは、インド系の登場人物がいて、それがドラマで主要な役割を果たしているということだけ記しておこう。
もう一方の「setem」は、英語の「stamp」がマレー語風になったもので「切手」。マレーシアとインドネシアでそれぞれ別の話として公開された「Cinta」と「Love」の監督による作品。世界に1枚しかないとても高価な切手を盗もうとする3組のギャングたちのドタバタ劇。3組のギャングがそれぞれインドネシア人、インド人、そして華人になっている。
ちなみにこのインドネシア人、役者はマレーシア人だそうだが、劇中ではボートでマレーシアに密入国して、コテコテのインドネシア語を話す。念のために書いておくと、インドネシア人はやっぱり盗人役か、というのは半分だけ正しい。インドネシア人だけでなくインド人も華人も同じ盗人だというのはフォローにならないけれど、この映画の中心はギャングなので盗人として描かれているということ。それに、インド人もインドネシア人も一番の悪者ではない。(では誰が一番の悪者なのかという問題は残るけれど。)


この2つの映画、共通しているのがインド系。ストーリーの上で意味がある形でインド系が出てくるので、昨日書いた「1マレーシア」に沿ったものということで「1マレーシア映画」と呼んでみた。
「1マレーシア」は今年4月に発表されたスローガンなので、それよりも前に制作されていたであろうこれらの映画は「1マレーシア」を意識して撮られたわけではないと思うし、どちらも監督がインド系ということもあるのだけれど、でもどちらもマレー人を中心としたマレー語の映画にインド系を準主役級の役に据えているところが興味深い。もう1つの共通性は盲目のマレー人が登場すること。ほぼ同じ時期に公開された「タレンタイム」を思い浮かべるとこれらの共通点は興味深い。


さて、では「Jomlah C.I.U.M.」がどうしておバカ映画大賞なのか。
ものごとにはいい面と悪い面があり、悪い面を指摘するだけならろくに考えなくてもできるし、それによって何かが積極的に変わるわけではない。だから、ここでいろいろなものごとを紹介するときには悪い面を指摘するだけにはせず、どうしてそんなものごとが出てきたのかを積極的に深読みすることを楽しもうと心がけているのだけれど、さすがにこの映画には参った。
まずは大まかな紹介を。jomlahというのは英語の「レッツ〜」にあたる表現。ciumとは匂いを嗅ぐ(キスする)こと。だから「jomlah cium」は「さあキスしよう」となる。そんなことを大っぴらに言うなんてなんてはしたないことを、とマレー人が言いそうだが、実際に劇中ではいろんな人が挨拶や感謝の印として頬や手の甲にキスしまくっている。でもこれはひっかけ。この映画のタイトルをよく見るとciumではなくC.I.U.M.になっている。cari identiti untuk Malaysia(マレーシアとしてのアイデンティティを手に入れる)の頭文字を並べたもの。
映画に出てくるのは3つの宗教をそれぞれ修めた人。盲目のマレー人ムスリムの宗教教師。インド系の仏僧。インド系のキリスト教のシスター。それぞれ自分のコミュニティで人々の悩みを聞いているうちに、両親が共働きだったり離婚していたり幼いころから孤児になっていたりする子どもたちが多く、家庭がしっかりしていないためによその悪い友だちにそそのかされて麻薬などの悪事に手を染めてしまうため、それを防ぐためには家庭で両親がしっかり子どもの世話をしなければならないし、そのためには宗教心を植え付けなければならない、と3人がそれぞれ思うようになる。その村には長年放置されていたイスラム教の寺子屋があり、ムスリム教師がそれを手入れして使えるようにしようと思いたち、仏僧とシスターがそれに手を貸す。
手を貸すというので、それぞれが自分のコミュニティに説明して、なんでムスリムのために働かなくちゃいけないんだよとかいうやり取りの後にみんな手伝うことになるのかと思ったら、文字通り仏僧とシスターが板を運んだり草を刈ったりして手伝っていただけ。手伝い1人を入れて4人だけで作業している。
そして寺子屋が完成したところで仏僧がせき込んで倒れてしまう。実は仏の道に入る前に18年間セメント工場で働いていて、そのため肺ガンを患っており、もう先は長くないとのこと。寺子屋が完成したのでうれしい、あとはその姿をムスリム教師に見せてあげたい、だから私が死んだら私の目を先生に移植してほしい、と言い残して息を引き取る。悪は常に外部から来るとか親が家にいないと子どもがグレるとか、すでにひどい話だけれど、もっとひどいのは死に際に仏僧が言う台詞。人はみな神のもとに帰る存在だとか、死んでから神の裁きを受ける身だとか言っている。そりゃ一神教の話だろ、あんたは仏僧なんだから輪廻転生するんでしょ、とつっこみたくなる。そんな基本的なところをないがしろにして、ただインド系の仏僧とシスターを出して「1マレーシア」なんて言われてもねえ(1マレーシアとは言ってないけど)。
もっと言えば、マレー映画を退屈にさせる二大パターンである「マレー人以外の登場人物は簡単に死ぬ」「マレー人は病気や障害があっても最後に治る」がそのままの形で出てくるところもなんとも。
でも、マレー人ムスリムの観客からすると、それぞれが(実は自分以外が)自分の宗教や民族の主張を棚上げにしてみんなで1つのものを作り上げるというお話なので、「多宗教の共存」などといい話として評価されるんだろうなと思う。ああ。
さらにいうと、この手の映画を撮ると「現実社会を反映していない」という批判を受けることがあるので、それを避けるためにこの映画では盲目の教師役に本当に盲目のイスラム教師を起用したらしい。「現実社会を反映していない」というのが劇映画に対する批判になるということからしてよくわからないが、仮にそうだとしてもこの映画のような対応は批判の方向を間違えているとしか思えない。ヤスミン監督も本当に大変だったんだろうなあと思う。