1ボルネオで1マレーシア

昨日からマレーシア映画祭。22年目にしてはじめて半島部を出てサバへ。
午後はコタキナバル市内のセンターポイントで「伝説のスターに会おう」セッション。1950年代や60年代の映画で活躍した伝説の俳優や歌手が30人近く集まったのは壮観。もう40年も経っているので往年の面影を見出すのは難しかったが、1人1人紹介されて、持ち歌を披露してくれたりすると、ああ、これがあの映画のあの人か、と思ったりする。ファンとの交流セッションでは記念写真と握手を求めてごった返す中でマリア・メナドと記念写真。
マレーシアの「伝説」系の役者のカタログを配っていた。開くとトップはP.ラムリーとカスマ・ブーティ。P.ラムリーをトップに持ってくるのは当然だろうけれど、カスマ・ブーティを並べているのがさすが。


夜は郊外に新しくできたハイパーマートの「1ボルネオ」でマレーシア映画祭のオープニング。司会はアブバカル・エラ(「オラン・キタ」のアンパル役)とシャジー・ファラック(「ゴールと口紅」のシャシャ役)。シャジーは映画で見ていたイメージよりもずいぶん小さかった。
サバ在住の知人ご夫妻と夕食。奥さまがマレーシア映画にとても詳しく、いろいろと教えていただく。さらに映画祭にあわせて先行上映される「Pisau Cukur」の入場券も入手していただき、食後に映画館に。主役は「ゴールと口紅」のプトリ役だったファズラ。彼女は「Selamat Pagi Cinta」にも出ていたけれど、この映画のようなお嬢役の方がぴたりとはまる。しかしこの映画の最大の見どころは、「ゴールと口紅」でジー役だったラフィダの変わり果てた姿(失礼)。芸者ガール風というか、「ゴールと口紅」のジーからは想像できない姿がスクリーンに映されるたびに思わず声をあげてしまったが、映画が終わってみるとすぐ後ろの席に本人が座っていた。「ゴールと口紅」以来のファンですと名乗って記念写真。


4月に首相に就任したナジブが打ち出した「1マレーシア」(1つのマレーシア)がマレーシア社会にいろいろな形で適用されていて、マレーシア映画祭のオープニングでもそれが見られたことに驚く。
まずは「1マレーシア」について。多民族社会であるマレーシアをどうやって統合して国民に一体感を持たせるかという工夫はこれまでいろいろな案が出されてきた。たとえば1960年代の「マレーシア人のマレーシア」がそう。でも、「マレーシア人」とはどういう人を指すのかがわかりにくく、特に自分はマレー人だと思う人たちからあまり支持されなかった。そして、マハティール元首相が1990年代に提唱した「バンサ・マレーシア」もそう。「バンサ」は民族とも国民ともとれるので、「マレーシア国民」と理解するのが提唱者の意図に沿っているのだろうけれど、これも、「マレーシア民族」とは一体どんな民族なのか、自分はマレー人ではないけれどマレー語とイスラム教を受け入れなければならないのか、などの疑問が解消されずに何となくスローガンどまりになっていた。
そこに出てきたのが今回の「1マレーシア」。言いたいことは「マレーシア人のマレーシア」や「バンサ・マレーシア」と同じなんだけれど、「マレーシア人」とか「バンサ・マレーシア」という言い方をしないで「1マレーシア」という言い方をしているのがよかったのかもしれない。マレー人だの華人だのサバだのというこれまでの区別はそのままにして「1マレーシア」に参加できる仕組みになっている。


マレーシア映画祭に話を戻すと、オープニングの式典で地元サバの踊りが披露された。踊りは3回あって、いつものように「海の民」と「陸の民」からそれぞれ踊りが披露されるのかなと思っていたら、はじめの2回とも「海の民」の踊りだった。この種のイベントではサバの踊りとして「陸の民」のスマザウなどが出るのが筋かと思っていたので、「海の民」の踊りが2回続いたのにはやや驚き。主催者のマシディ・マンジュンも複雑な思いだったのではないかなどと想像してみる。
それはともかく、注目は3つ目の踊り。舞台に出て踊る人数は同じだけれど、身につけている衣装がばらばら。それぞれ別々の民族衣装を着て、カダザンもムルトもバジャウもスルックもみんな一緒に踊っている。よく見ると中華系の衣装もある。サバでは民族舞踊は民族ごとに見せるのが常識だった。例えばカダザンにはカダザンの踊りがあり、それをバジャウの踊りと混ぜるのはナンセンスだという理解があった。実は踊り子は同じ人たちで、舞台裏で着替えていくつもの民族を踊ったりしているのだけれど、でも違う民族の服を着て同じ舞台に立つことはなかった。サバのそれぞれのグループを一斉に並べてみんなで同じ歌に合わせて1つの踊りを踊らせるというのは、発想の大転換だが、まさに「1マレーシア」(というよりこの場合は「1サバ」か)の具現であって、ありといえばありだろう。いつごろからやっているのかわからないが、ごく最近のできごとであるはず。実は外国では見たことがあって、2003年8月の独立記念日にメダンで開催されたパーティーではサバの各集団が一斉に舞台に立った踊りを見せてくれた。でもそれは外国での話。地元サバで、しかも州政府が絡んでいる公式のイベントでやってのけたというのは大英断かもしれない。そのイベントの司会をしているのが「オラン・キタ」のアンパルだというのもまた妙なご縁で、これから「1マレーシア」の追い風に吹かれて文化芸術方面で大きな転換が見られる予感がする。


ついでに言うと、映画祭の会場となった1ボルネオは、この1ヵ所に来さえすれば何でも揃うという意味での命名。オープンしてまだ1年だが、少なくともナジブ首相が1マレーシアと言いだすよりもずっと前からある。ナジブ首相の1マレーシアは、実は1ボルネオがヒントになっているのではないかと想像している。
もう1つついでに言うと、サバでは1マレーシアがかなり受け入れられているようで、新しいビルが建っているのも「1マレーシアのおかげ」、道路建設が進んでいるのも「1マレーシアのおかげ」とまるで開発プロジェクトを引き出す呪文であるかのように「1マレーシア」が唱えられているが、その一方でサバのマレーシア内での特別の地位を手放すことには消極的で、「1マレーシア」に下の句をつけて「1マレーシア、2システム」と言ったりしている。このあたりがサバっ子のおもしろいところだ。