「1マレーシア」とカダザンドゥスン人

マレーシア映画祭では「伝説」の映画俳優や歌手たちに会う機会があったが、それとほぼ同じ日程で別の「伝説」の有名人たちが勢ぞろいする機会があった。
有名人と言ってもサバ以外ではほとんど名前が知られていないだろうが、ヘルマン・ルピンが「カダザンドゥスン人」という本を出版し、その出版記念パーティーに、ガニー・ギロン、スフィアン・コロー、ラフマ・ステファン、ベネディクト・トピン(パイリン・キティガンの代理)、トマス・ジャヤスリヤなどが勢ぞろいして出版を祝い、1人1人舞台に呼ばれて本を受け取った。
この背景には最近の「1マレーシア」がある。マレーシアの各集団を等しく扱うべきという動きがあり、なかには「公務員職を人口比に応じて全ての民族に配分せよ」という議論まで出てくる。半島部では「民族」は3つに決まっているのでこの議論の意味はわかりやすいが、民族の区分が明確でないサバやサラワクではいろいろな見方が可能になる。わかりやすく言えば、自分たちが特定の民族であると認められれば公務員ポストや予算などが与えられるかもしれない、という期待を与えるかもしれない。そのせいもあって、広い意味ではカダザンドゥスン人に括られる人たちのなかから、自分たちはカダザンドゥスン人ではなく独自の民族だと唱える動きが多発している。それらの多くは認められないだろうけれど、でも言うだけならタダだし、もしかしたら何かもらえるかもしれない。
実はこんな動きはこれまで50年間に何度も何度も起ってきたことだけれど、いまから40年前の1960年8月、これらの人びとをまとめて「我々はカダザン人である」という決議がなされた。このとき集まった各地のリーダーには「カダザン人」という名前に反対する人たちもいた。ガニー・ギロンやスフィアン・コローやスンダン兄弟たち。40年前には、これらの反対した人たちをカダザン人団体のナンバー2として取り込み、最終的には満場一致で「われわれはカダザン人である」という決議が行われた。でも心の中では不満を持っている人もいて、その後の政治状況が変わると「やっぱりカダザン人じゃなくてドゥスン人だ」と言いだす人たちが出てきた。1980年代にはとりあえず「カダザンドゥスン人」ということでまとまることになったけれど、最近また独自の民族だという動きが出てきている。
こんな状況でヘルマン・ルピンが「カダザンドゥスン人」という本を出版した。ルピンは1960年8月の「カダザン人決議」を導いた当時の政治指導者の1人で、当時の「カダザン人」推進派ではほぼ唯一の生き残り。これが久々に表舞台に表れて「われわれはカダザンドゥスン人だ」と言った。この場合、民族名はそれほど重要ではなく、われわれは1つの民族であるという主張が重要だ。
この出版記念パーティーのポイントは2つ。
1つは、この本が40年前の「カダザン人」反対派を招いて行われたこと。スンダン兄弟は亡くなっているが、存命のガニー・ギロンやスフィアン・コローが舞台に出てきて、ヘルマン・ルピンから「カダザンドゥスン人」という本を受け取っている。そしてそれを見守っているのが、初代族長と第二代族長、そして1960年の「カダザン人決議」の中心人物(故人)の息子、シャーマンたち、勇者モンソピアドの子孫、カダザンドゥスン文化協会の事務局長、そして1960年代のサバ人行政官たちだった。これは、1960年の「カダザン人決議」の別の形でのやり直しにほかならない。
もう1つは、この本の出版を連邦政府が支援して、出版記念パーティー連邦政府の代表者の立会いのもとで行われたこと。カダザンドゥスン人にとって最大のお祭りである収穫祭(ペスタ・カアマタン)はこれまでサバ州だけの祝日だったが今年から連邦全体の祝日として認められたことと重ねて考えると、これは連邦政府がカダザンドゥスン人をマレーシア社会の不可欠の一員として認めたというメッセージになっている。そのことが現実の政治経済で何を意味するかはまだわからないにしても、これまで常に「その他」扱いされてきたカダザンドゥスン人たちにとっては大きな一歩だ。
「伝説」世代の人たちもその後継世代の人たちも、「1マレーシア」の枠組みでのカダザンドゥスン人の認知と地位向上への期待を口々に唱えていた。「1マレーシア」は少なくともサバの一部の人びとの心を掴むことに成功したようだ。