ボルネオ生物多様性保全・生態系保全プログラム

サバ州政府に勤務する妹分を訪ねてヤヤサン・サバ・ビルへ。ところが出張中で不在ということで、同じ建物のJICA事務所を飛び入りでのぞかせていただいた。かなり遅い時間帯にアポイントもなく飛び込んでしまったけれど、ありがたいことに日本人スタッフの方々に歓迎していただき、プロジェクトの概要などについて説明を受けた。
この事務所で行っているのはボルネオ生物多様性保全・生態系保全プログラムというプログラム。日本のODA事業の一環としてJICAが実施している技術協力で、まず2002年からの5年間が技術支援を行ったフェーズ1で、州政府や連邦機関のいくつかを選んで自然環境保全に必要な知識や技術の移転を行った。ここまでは技術移転の話としてはわかりやすい。興味深いのはその次に来る現在進行中のフェーズ2で、2007年からの5年間は政策支援に充てられている。移転された技術を実際に活用させるために、すでに制定されているけれど実態は空文化していた州法令に目をつけ、それを実体化しようというもの。具体的には、フェーズ1で知識や技術の移転を行った州・連邦の部局を取り込んで、省庁などの枠を超えた横の連携を実体化させる仕組みを恒常化させるということらしい。これの何が興味深いかというと、州政府と連邦政府の管轄が明確に分かれている連邦国家マレーシアのサバ州で、このプログラムは省庁横断型の連携だけでなく州・連邦横断型の連携をも積極的に進めていることだ。


興味深かったのは、技術協力の段階に応じた地域研究の重要性についての話。最初の技術移転の段階では技術が中心になるので地元文化などの要素を入れずに進められるけれど、実際の政策に反映させる段階になると、技術的にはよいと思われることでも地元の社会状況や歴史的背景のために制約を受けることも出てくるため、地域研究との協力が必要になってくるということだった。話を伺っていて、自分たちが持っている技術は優れているのだからそれを使えと強要するのではなく、受け手が納得して使おうと思うようにするにはどうすればよいかをあれこれと試行錯誤してきているのだろうなと感じる。時間が限られていたせいもあってあっさりとお話ししてくださったが、それが自分のどんな利益に結びつくのかと常にシビアに問うサバで事業を進めるのが口で言うほどに簡単な話ではないことは容易に想像できるので、おそらく苦労話を書いて積み上げればキナバル山ほど高くなるのだろう。州・連邦の枠を超えた連携を作り出すという野心的な試みであればなおさらだ。
最近はやりの「1マレーシア」を使って言うとこうなる。世の中では「1マレーシア」というスローガンが飛び交って人々がハッピーな気分になっているけれど、スローガンどまりではいずれ人々の熱は冷める。そうならないうちに実質的なものを積み上げていくには、表舞台の華やかなスローガンとは別に地道な舞台設定の努力が必要だ。このプログラムが「1マレーシア」の成否を握っているとまでは言わないが、このプログラムが成功すればサバ州内の省庁間の連携の1つのモデルとなることは明らかで、その意味でこのプログラムは生物多様性保全・生態系保全だけでなくマレーシアにおける連邦・州関係の観点からも注目されるべき試みだろう。


もう1つ、このプログラムの話を伺って私が秘かな期待を込めているのは、40年前のサバ独立当初の4K政策が現在の文脈に合わせた形で実現される可能性があるかなと思うため。
独立当初、サバの主要な資源は森林資源で、木を切って原木丸太で輸出するということが繰り返されていた。伐採と輸出の中心となったのは、1952年に民間企業が伐採業に参入可能になったときにサバにやってきた欧米系の4大伐採会社と、その隙間を縫って年間ライセンスで操業する華人を中心とする地元業者たちだった。これを州有化して、持続的な森林資源の保護と管理を行い、地元住民に労働の機会を与えて、森林資源からの収入はサバ州民に広く裨益する形で配分してサバを豊かな州にしようと唱えたのが初代州首相のドナルド・ステファンだった。その政策は「Kayu, Kerja, Kebun, Kaya」(木材と労働で農地と富を)を略した4K政策と呼ばれた。ところが既得権益である伐採権を失うことを恐れた華人伐採業者たちが業界団体を通じて抵抗し、そのためムスタファ・ハルンを担ぎあげ、さらに連邦政府の支持を得てステファンを失脚させたのが1964年。伐採権の許認可権限を持つ州天然資源相ポストを誰が握るかが焦点になり、結局は州首相府において州首相が事実上の許認可権限を持つことになったのが1960年代後半の話。昨日書いたヘルマン・ルピンが活躍したのもまさにこのころで、出版記念パーティーに来ていたトマス・ジャヤスリヤは当時の州天然資源相だった人物。
それ以降は、伐採権を管理して収益を地元住民の教育などのために使うヤヤサン・サバが作られたり、原木丸太の輸出が禁止されたりといろいろ経緯があるが、この過程でサバの木材資源は州の自立を担保するものとして州の連邦との対立を支える形で見られることが多かった。サバ州の自立は重要だが、それを他の人々と対立することによって実現するのではなく、天然資源を持続可能な形で管理してそれをもとに自分たちの労働によって富と繁栄を生み出そうとするステファンの4K政策の精神とは離れたものになっていた。州財政に占める木材伐採の重みが40年前と大きく変わっている現在、ステファンの4K政策はそのままの形で実現する意味はないが、その精神を活かすとするならば州・連邦の枠を超えた連携が肝となる。ボルネオ生物多様性保全・生態系保全プログラムがサバ州首相府の天然資源局に置かれていることも、ステファンの4K政策との何かの縁を感じずにいられない。その意味でも、このプログラムのゆくえに秘かに、しかし大いに期待している。
http://www.bbec.sabah.gov.my/japanese/index_jp.php