場を区切らない人々

今日はとてもつまらない話。つまらないので思い出したくもないが、現実に起こったことだし、忘れるべきでもないとも思う。もう2、3日すると今の気持ちを忘れてしまうだろうから、まとまりはないけれど、忘れる前に書いておく。できるだけ一般的な書き方をするように心がけるけれど、自分が直接かかわっているので難しいだろうとは思う。


この週末に研究大会に参加した。去年に引き続いての参加。
去年の話はこの場で「あるシニア研究者の頑迷さ」と書いた。自分で「定説を覆す努力を」という文章を書いておきながら、自分の学説と違う学説に基づいて研究発表した若手研究者に質疑応答の際に「馬耳東風」と言い、閉会式には会長挨拶で「この大会で議論されたことが学説として認められたとは考えないように」「私は認めない」と発言した。

この研究会の研究対象は、良くも悪くも日本ではその重要性が広く認知されてはいないため、いわゆる「学界のボス」がいないという特徴がある。シニア研究者は何人かいて、当然その研究内容には敬意が払われているが、シニア研究者だからといって「俺がこうだと言ったらこうだ」という態度をとる人はいないし、そういう人が出てきてもまわりが支持しないという場を作るように努力してきた。生き残りのためでもあるし、研究者の多様化に対応する上でも、隣接分野の研究者を巻き込んで研究活動を発展させていく上でも、発展のためにも必要だと思ったためだ。それなのに、結成から20年近くたって一歩先の段階に進もうとしたところで、「私はそれを学説と認めない」という発言が出てきた。しかも、質疑応答ではなく閉幕式の会長挨拶でだった。反論できない状況で批判だけ言い逃げするとは、こんなひどい話があるだろうか。


案の定、今年の大会では例年より参加者が少なかった。でも、今年はインフルエンザがあるなど大会の出欠の増減にはいろいろな要因があるし、去年の発言についてはきっとご自身も反省なさっていることだろうと考えて、多少変なところはあってもこの道の第一人者としてやってきたそのシニア研究者に敬意を表して去年の問題は蒸し返さないことにしようと思って参加した。にもかかわらず、結果として私にとってひどい展開になってしまった。

大会1日目の懇親会の会長挨拶で、そのシニア研究者が、表現は違うけれど結局去年と同じ内容を繰り返す発言をしたため、その場にいた若手研究者の間で1年前の苦々しい思い出を共有してしまった。そんな雰囲気の中、二次会の席で、おそらくそのシニア研究者にしてみれば座興の1つであって大した意味もなかったのだろうけれど、目の前に座っていた私に対してお下劣な冗談を言ったため、酔ったことにしていた愛想笑いもすっかり冷め、もはやこれまでと私が昨年の発言についての不満をぶつけたのが事の起こり。
当事者以外からみれば、どうせ言うのであれば冷静かつ紳士的に去年の発言内容を確認して苦言を呈するというやり方もあったと思うかもしれないが、それまでの経緯があってのことであり、かなり言葉を荒げたやりとりとなった。他の人と打ち合わせをしたわけではないけれど、私の言葉をきっかけに、その場にいた他の人たちもそのシニア研究者に日ごろから感じていることを言い始めた。それに対してシニア研究者が「そんなことを言った覚えはない」「そんなつもりで言ったのではない」を繰り返したため、どういう場面で何を言って、それがどう伝わったかという話になった。その場にいたが去年の事情は知らない人たちも事情を理解してくれたようなので、言った甲斐はあったかと思ったが、そう簡単な話でもなかったようだ。


その翌日行われた大会の閉幕式は、そのシニア研究者がこの会の代表として公式に挨拶する最後の機会だった。だから、昨年ご自身が行った「学説として認めない」という発言を撤回するなどの何らかの意思表示があるのかと思っていた。しかし、出てきたのは「これまでに私の発言を不愉快に思った人がいたら申し訳ない」という言葉だった。これでは何が問題なのかが明らかでなく、事情が知らない人が聞いたら個人的な問題のことだとしか思わないではないか。
個人的な不満について謝ったり謝られたりするなら個人的にやればいいことだし、そもそも、変なところがあるとはいえそのシニア研究者にはお世話になった面も多いのだから、個別のことがらについて不満があろうとも謝っていただこうという気などない。ときには理不尽な思いを受けたとしても、それをどうやり過ごすかということを含めて先人から学ぶことだと思うからだ。その点ではなく、ボス風を吹かせる人を許さない場を作ろうと努力してきたはずなのに、それを台無しにする発言を会長の公式発言として行ったことに対する異議申し立てのつもりだった。


これに関連して思ったこといくつか。
世の中には、誰かと誰かが激しい口論をしたとき、その原因がどこにあるかを知ろうとせず、とにかく喧嘩をするのはよくないという態度をとる人がいること。やるなら自分たちだけでやってくれと言ったりする。もちろん、個人的な恨みが原因の喧嘩であれば、他人に迷惑をかけないように自分たちでやるべきだろう。でも、個人と個人がやりあっているとしても、個人的な恨みのためではなく、その場全体に関わることでやりあっていることだってある。
他人の前で言葉を荒げて口論する姿を見せる方だって楽しいはずはないが、それでも問題がある以上は誰かが言わなければならず、しかも社会的な立場などを考えると誰でも言えるとは限らないので、役まわりだと思って引き受けて言っている人だっているはずだ。
こんなときに京都人どうしなら言葉を荒げずに洗練されたイケズで刺すのだろうけれど、間接的に伝えようと何度も試みてもどうにもうまくいかず、やむなく野蛮にも言葉を荒げて注意喚起しなければならないこともある。自分より二まわりも年上のその道の第一人者に駆け出しの若造が声を荒げて文句を言うなんて、やっている方は面白半分でやっているはずがない。それまで積み上げてきた関係や信頼や雰囲気やいろいろなものを失う覚悟で、それでも言わずには済まされないと思うから声を上げていたりする。そのやり方について修業不足だと批判されればその批判自体は素直に受け入れて精進したいと思うが、それとは別に、「とにかく喧嘩はよくない」という見方とあわせて「切れると怖い人」という情報だけ残って流通していくのかと思うとうんざりする。ただ1つ救われるのは、声を上げたときに私が孤独感を感じずに済んだこと。声に出す人も出さない人も、支持しているという気持ちが伝わってきたため。
もう1つは、シニア研究者の権力に対するナイーブさ。自分は軽い気持ちで言っていることであっても、その道の第一人者が言ったことならばなるべくその意向に沿うようにしようとまわりが考えるものだ。「私はそんなつもりで言ったわけではない」では通用しない。それなのに、社会的な立場が生み出す権力があるのだからそのことは自覚していただきたいと言っても、私は権力は嫌いだ、いつでも一兵卒だと思っているのでそう扱ってほしいと繰り返すだけ。それは権力に対する認識がナイーブすぎる。
好きだろうが嫌いだろうが社会生活している以上は立場のために自分が権力を持ってしまうことは避けられない。それを否定するということは、実際は自分が命令しているという責任を引き受けることなく他人を動かしているということではないか。
3つ目は、場を区切らない人々がいること。大学での関係性と私生活上の関係性と学会での関係性を区別せず、混同させている人がいる。
たとえば、「これまで学会では若手が支えてきたのでこれからはシニアも支えよう」という発言に対して、「シニアは大学や政府の役職をいくつも担当してきたのだから今度は若手に頑張ってもらいたい」と言ってみたりする。あるいは、自分が割り当てられた委員の担当内容がわからないからと放っておき、「声をかけてくれれば手伝いから」と伝えたにもかかわらず何もせず、最後の最後にまわりのみんながあわてて手伝って事なきを得たところで、「君とはオマエ・オレの仲かと思っていたから何も言わなくても手伝ってくれると思っていたのに、声をかければ手伝うと言われた驚いた」と言われてびっくりする。委員ごとに役割があるからその内容に他人が口出しすべきでないと思って、それでも見捨てているつもりはないので「声をかけてくれれば手伝う」と言っているのに、それに対して別の場での関係を持ち出して不満を言われても困ってしまう。このように、場が複数あって、同じ人どうしでも場ごとに関係性が異なるという発想になじんでいない人がけっこういるようだ。
「ある場面で結ばれた上下関係はどこまで行ってもその関係のまま」なんてまっぴら。上下関係でもオマエ・オレの仲でもいいけれど、それを維持したければその場その場でその立場にふさわしふるまいを続けることで維持すべきだろう。