「1942 怨霊」――国際共通語としての日本語

何年か前に購入はしたものの、怖いもの系だろうと厳重に管理しておいたもの。怖くはないという情報をいただいたので観てみることにした。
改めてDVDのカバーを見ると、使用言語が日本語になっている。このことにまず驚いた。シンガポールで作られたマレーシアを舞台にした映画だが、これがほとんど全編日本語になっている。この記載に気づいていれば、怖いもの系であっても観ていたかもしれない。


ネット上を読み流してみると、ホラー映画としての評価はまるっきりダメのようだ。ホラーを観慣れていない私にはどのあたりがダメなのかピンとこないが、ホラーを観慣れた人には先が読めるからというのが理由の1つにあるようだ。でも、この映画ではあえて先が読めるように作ってあるのではないかと思う。
この映画のポイントの1つは、ジャングルが全然ジャングルになっていないことだろう。マレーシアに馴染みがあればすぐにわかるように、この映画では、川を渡るごとに、アブラヤシ、ゴム、そしてイネと植生が変わっていく。アブラヤシの前の場面は巨大ヒルがいたので、これをジャングルだとすると、それを含めて4つの植生の間を移っていくということになる。そのたびに木々の高さは低くなり、太さも細くなっていくので、ジャングルから開発後の現代へという流れははじめからスクリーンに提示されていた。スリム河からクアラルンプールへと南に移動していたのではなく、1942年から21世紀初頭に時を移動していたということだ。川がだんだん浅くなっていき、少女はどんどん年をとっていくのもそのため。
ところで、上で挙げた「流れ」は、木の高さや太さなどの見た目で判断した場合にはうまく時が流れているように見えるけれど、マレーシアの経済開発の順を考えると、まず20世紀初めのゴムがあって、20世紀末以降のアブラヤシはそのあとに来るので、その変遷を念頭に置いて見ていると時代が前後してちょっと混乱する。


amazonだったか、この映画の解説に「あの最も悲惨と言われた東南アジアでの死の行軍を見事に映像化」とあったが、この突込みどころ満載の記述は一体何なのか。
まず、東南アジアの「死の行進」と言えばフィリピンのことでマラヤではない。マレーシア領ということならボルネオ島サバ州にサンダカンからラナウまでの「死の行進」があったが、これはほとんど知られていないので「あの最も悲惨と言われた」はあたらないだろう。それに、この映画では負傷兵を担架で担いで運んだりしているが、これは赤痢などで体力を奪われていてふらふらになっていた「死の行進」のイメージとはあまりにかけ離れている。
でも、問題はそこではない。この映画の題材はスリム川での戦闘であると明示されているのだから、宣伝でもそう言えばいいではないか。アジア太平洋戦争の緒戦で日本が英国側を破り、その後のクアラルンプールやシンガポールの占領につながった戦いで、マラヤの地方レベルでの出来事ではなく、アジア太平洋戦争全体でも重要な位置づけを占める戦いだった。だからマレーシアに馴染みがない人でも聞いたことがある人は多いはずだ。それなのに、そのことを言わず、縁もゆかりもない「死の行進」を出してくるとは、どういう売り方なんだろうか。


ウェブ上の批判でよく見かけたのは、登場人物が「劇団員のようなしゃべり方」をしているというもの。確かにそうだ。でも、あれは役者が下手なのではなく、まずセリフを直訳調にして、しかもそれをあえて聞き取りやすくしゃべろうとしたためではないか。
もしそうだとすると、その延長上で考えられるのは、この映画で使われている日本語は日本民族の民族語としての日本語ではなく、国際語としての日本語だということになる。さまざまな文化的背景を持った人々の間での共通語としての日本語だ。だから、日本文化に根差した言いまわしのようなもの(つまり、日本民族にとってのリアリティ)は落ちていき、世界中の様々な人々にわかりやすい表現になっていく。この映画で敵性語がたくさん出てくるのも同じ理由から。日本人なら戦時中に敵性語の言い換えがあったことは知っているけれど、そのような背景を知らない人を相手に敵性語の言い換えを厳密にやっていたら、日本文化に馴染みがない観客には理解できなくなってしまう。シェークスピアを現代英語で演じるようなものだろうか。
ということで、この映画は、日本語を使っていると言っても日本の社会や文化を知らなければならないということではなく、日本の社会や文化と切り離されたコミュニケーション手段としての日本語がありうるという試みなのではないか。日本のファッションやアニメが世界で受け入れられていることや、日本の小説が翻訳されて読まれていることは知っていたが、日本語が同じように受け入れられ始めているということなのではないか。そうだとしたらこれは日本語の歴史にとって新しい時代の始まりになるだろうか。
日本国内で評判が悪いのは、この映画は日本民族向けではなくワールド向けの日本語映画であり、そのため日本民族にとってのリアリティが失われていて、日本の社会や文化に馴染みがある人には物足りなく見えてしまうということなのだろう。日本民族にとってのリアリティが失われるということは、日本語が国際共通語となるために引き受けざるを得ない「代償」であると映るかもしれない。でも、もしその延長上で日本語が国際共通語の1つになったとしたら、日本民族以外で日本語を日常的に話す人々が出てくるかもしれない。その人々が話す日本語は、日本に住む日本人から見れば堕落した日本語でしかないかもしれないが、それもまた1つの日本語であり、全体で日本語を豊饒化するものだったりする。ちょうど東南アジアの華語が中国語以外の要素を取り入れながら独自の言語として発展しているように。


その他いくつか。
マラヤでスリム川の戦闘などに参加したのは第5師団のはずだけれど、この映画では第6師団になっている。もしかして、落ちが同じ有名なホラー映画にかけたものか? 第5師団は主に広島出身者から構成されていたが、映画では北海道出身という話も出ている。それぞれの名前がどこから来ているのか(第5師団の実在する人物に似た名前の人物がいたのか)は未確認。
映画中の歌はMak Minahの「Bukit Secocol」。スリム川流域を含む地域に住むオラン・アスリが森林の精霊と交信するときに歌う歌をもとにしたもの。