国際会議で英語を使うこと

インドネシアの国際会議に参加する機会があった。日本人とインドネシア人の研究者がこれまで1年半かけて行ってきた共同研究プロジェクトの成果を英語で発表し、その内容を検討するというもの。
3日間の日程の最後のセッションで会議のまとめが行われた。代表者が全体を3つのパートに分けて、それぞれの成果概要を5つか6つの文でまとめたものをパワーポイントのシート3枚で提示して、それを参加者で議論しながら修正する。かなり細かい表現まで直したりして、内容についての議論というよりも英文法の議論に近い印象を受ける。こうして最終的に3ページにまとまった英文のまとめが完成した。
このセッションをもって閉会となり、帰りの飛行機の都合で日本人参加者の多くが会場を去った。代表者と何人かが残って記者会見になった。私は時間があったので会場に残り、フロアから見せてもらうことにした。
舞台に日本側とインドネシア側の参加者が何人か上り、進行役の指示に従って日本側参加者とインドネシア側参加者がそれぞれ話す形を取った。新聞記者は数人来たけれど、英語の話を聞いてメモを取っていたのは全国紙「コンパス」の記者ぐらいで、それ以外の地方紙の記者はインドネシア語を聞いてメモしていた。そのため、研究成果については、日本側代表者が英語で話して、次にインドネシア側参加者がパートごとにインドネシア語で説明する形を取った。インドネシア側の3人はいずれもこの研究プロジェクトの参加者で、自分の研究成果も各パートの5つか6つの文のうちの1つとして入っている。ところが、インドネシア語で説明したときにパート全体の説明をするのではなく自分の研究発表についてしか話さなかった。そのため、3つのパートで全体で20近くの研究発表があったけれど、インドネシア語で説明されたのはそのうち3つだけになった。何のために英語であんなに細かく表現を直したりしていたのか。
翌日の新聞には、当然のようにこの3つの成果を中心に内容が紹介された記事が掲載された。これでは日本からの参加者の発表内容はどうでもよくて、「国際」会議にするために日本人に来てもらった(しかも旅費は日本側が出すし)だけで、記者会見のときに舞台に上げたのもお飾りでしかないということじゃないのか。日本側の関係者にそう伝えてみたが、自分たちの仕事は研究してその成果を発表することであって、その成果を相手国でどのように使うかには興味がないと言わんばかりの反応しか返ってこなかった。もしかしたら、発表内容はそれほど重要ではなくて形式が整っていればいいという点では日本側とインドネシア側の利害は合致していたということだろうか。日本側研究者もそこまで割り切って共同研究を進めてきたのかもしれない。今回の研究プロジェクトは研究だけではなくて社会への実装の部分が重要だからと言われ、その点に大いに期待してこれまで参加してきたけれど、「社会」って言ってもいろいろな意味があるのかもしれないと思った。
「社会」との関連で気になるのは、英語で会議をするということ。英語が悪いというわけではないけれど、英語ではメッセージが伝わらない人たちをどう巻き込むかということを考えると、英語を使わないことも考えてよいのではないかと思う。一般に、国際会議は英語で行われる。でも、例えばインドネシアと日本だったら、インドネシア語と日本語でそれぞれ発表して通訳をつけるというのではだめなのだろうか。「研究はできるし社会のことを考えているけれど英語がそれほどできない人」と「研究はあまりできないし社会のことはあまり考えていないけれど英語はできる人」を比べたとき、前者ではなく後者を集めていったら、その研究は本当に社会に意味がある形で発展するのだろうか。これについてはもう少し考えてみたい。