『新世界の夜明け』

「CO2上映展 第7回フィルム・エキシビション in OSAKA」で上映されたリム・カーワイ監督の『新世界の夜明け』を観た。
北京で何不自由なく暮らすココ。金持ち青年のジミーと付き合っているが、喧嘩してクリスマスは1人で過ごすことになる。かつて中国が貧しかったころ大阪に出稼ぎに行ったことがあるという運転手から大阪で見たクリスマスツリーの話を聞き、ココは友人のアイヴィが留学している大阪でクリスマスを過ごすことにする。ところが、北京では高級ホテルにしか泊まったことがないココが大阪に着いて案内されたのは、布団を1枚敷くだけの広さしかない和室が並ぶ古い和風旅館だった。父親から旅館を受け継いだマサノブは、外国人観光客を呼ぶことでこの旅館を建て直そうとしていた。言葉も通じず、こんな小さな部屋にはとても泊まれないと旅館を飛び出すココ。その後を、空港からココをつけているいかにも怪しげな男が追いかけていく。アイヴィがアルバイトするスナックの経営者エリは借金の返済ができずに行方不明になる。マサノブはアイヴィと金策に走るが思うようにいかない。他方、ココはエリの息子の光明と夜の新世界でいろいろな人に出会う。マサノブたちとココたちが再開し、謎の怪しい男の正体が明らかになり、エリの問題がどう解決されるか。


設定上の主人公はココだろうが、この映画の本当の主役は光明くんだろう。中盤以降は、日本語と中国語で淡々と話す光明くんを中心に話が展開していく。会話を仲介するときに、一方が言ったことをそのまま訳して伝えるのではなく、肝心の部分だけ選んで訳して伝えているセンスの良さ。小学生なのに態度は子どもっぽくなく、マサノブとほぼ対等に話している。ココが最初に光明くんに紹介されたときに光明くんが算盤をはじいていたのは、実際には学校の宿題をやっていたのかもしれないが、大人びた雰囲気からは、光明くんがこの地域を裏で仕切っているのではないかという印象すら与える。
アイヴィのバイト先であるスナックに降りかかった事件が解決するのは光明くんを助けたいという人々の思いがあったからだ。もし光明くんがいなかったらココとマサノブたちは最後まですれ違ったまま別れていただろう。現代中国から来たココと話ができるのは、中国人留学生であるアイヴィを除けば、ホームレスと光明くんぐらいだった。ホームレスは過去の中国の光を背負い続けている存在だが、光明くんはこれからの日中関係の担い手となりうる存在で、その名の通り新世界の夜明けにふさわしい。


ココが大阪に行ったのはクリスマス・ツリーが見たかったためだ。でも、どうしてクリスマスなのか。撮影時期がクリスマスだったという事情もあるだろうが、物語の中でクリスマスはどのような意味を持っているのか。
スナックの貼り紙に書かれていた「クリスマス」の綴りが「Chritmas」だったことに象徴されるように、日本人にとっても中国人にとってもクリスマスはどこか他人事だ。そうであるからこそ、日本人と中国人が何の色も込めずに一緒にお祝いできる機会ということだろうか。
クリスマスはプレゼント交換の機会でもある。事件解決後のクリスマス・パーティーのプレゼント交換で、ココは(光明くんの言葉以外に)何も受け取らなかった。プレゼントは一方的にもらうものではなく交換するものであり、他人に渡すプレゼントを用意していないココは何ももらえないということだろうか。ただし、ココは別の機会にプレゼントをもらっていた。新世界で知り合った別の登場人物が、30年前に自分が中国で受け取ったという贈り物をココに贈った。贈られたものは、中国の階級闘争を信奉する人々にとっては極めて高い価値を持っているものだ。現代っ子であるココにはおそらくその精神的価値価値は理解できなかっただろうが、それでも喜んでその贈り物を受け取った。これは、かつて中国が世界に誇り、今は忘れられているかに見える価値を現代の中国人に思い出させたいということかもしれない。でも、それを喜んで受け取ったココの心の中はわからない。もしかしたら、「ネットオークションで高く売れる!」と思って喜んでいたのかもしれない。


光明くんと一緒に夜の新世界のいろいろな店や路地裏に入り込み、そこで暮らす人々の話を聞いていくことで、ココは自分が抱いていた日本や中国に対する思いを変えていく。それらの話にほぼ共通するのは、20年前に中国は経済成長に向かったが、それと引き換えに階級矛盾の解消を棚上げにしてしまい、それは国内だけにとどまらずアジア諸国における階級闘争の旗手としての立場も失ったというメッセージだ。
日中関係などで少々説教じみている面もないわけではなし、事件の解決の仕方がやや現実離れしているという批判も可能だが、それらは今の大阪の新世界の人々にとっての中国のリアリティを反映しているものであって、それを入れたことにむしろリム監督の個性がよく現れていると受け止めるべきだろう。
マレーシアで生まれ、日本と中国で学んだリム監督は、まわりにいる人たちがどう考えているかを読み取り、それを現実のものにしていく器用な人だ。(『新世界の夜明け』は直接的にはマレーシアとは関係ない。でも、主人公の名前をスポンサーのCO2と同じココにしていることに、スポンサー筋を尊重するマレーシア人らしさが垣間見える気がする。)『新世界の夜明け』は、時間と予算が限られた状況で制作された。制約の中で破綻せずに作品を作り上げるため、まわりの人々の考えをうまく掬い取って作品に仕上げていったのだろう。
これで思い出すのが、同じマレーシア人のウー・ミンジン監督の『海辺の物語』だ。スタッフやキャストを集めて、それぞれの特徴をなるべく生かす配役を考えて、物語を展開させていく。脚本はあるが、監督や脚本家が単独で物語を展開するのではなく、スタッフやキャストによって設定された枠組みに沿って物語が展開していく。そのため、監督個人の思いを超えて物語が大きく展開しうるし、その結果、その作品が作られた時代の空気がとてもよく反映されたものになっている。このように国境を越えた共同制作によって国際色を帯びた作品に「マレーシア発のアジア映画」の新しい可能性があるが、リム・カーワイ監督もその流れを牽引する1人だろう。


時代の空気をフィルムに焼き付けるのがリム監督の作風だとすれば、作品ごとに雰囲気が大きく変わることになる。第一作の『それから』と今回の『新世界の夜明け』は確かに雰囲気が変わっていた。でも、訪れた先で歓待されないところから物語が始まる点は共通している。このあたりに、まわりの人たちの思惑を掬い取って作品にまとめ上げていくリム監督に欠かすことができない自分らしさの源泉があるのかもしれない。
『新世界の夜明け』は第三作で、第二作は3月の大阪アジアン映画祭で公開される『マジック&ロス』ということなので、この作品もぜひ観てみたい。