『少年少女』

大阪アジアン映画祭の1日目。シネヌーヴォという映画館で3本。天井の装飾も凝っていて、とても雰囲気のある映画館だった。製作スタッフとも身近に感じられる。
満席となった『歓待』については後で書くとして、まずは2本目の『少年少女』について。『歓待』のメイキングでありながら、それ自体が独立した物語をもった作品になっている。
『少年少女』にどんな物語を読み解くのかは観客しだい。『歓待』に出演していた5歳のエリコちゃんの撮影の空き時間の傍若無人ぶりだとか、近所に住む同じ年のマサノブ君がかいがいしくエリコちゃんの相手をしていた様子とか、『歓待』の舞台になった小林印刷やその近隣の人たちの様子とか。そういった物語に身を委ねるのも心地よいけれど、『少年少女』はもともとの制作意図である『歓待』のメイキングとしてもよくできていて、『歓待』への理解がいっそう深まった。
『歓待』は、段取りも後片付けもしないで自分勝手にふるまう人が自分たちの暮らしに突然入り込んできたときにどう対応するかという話。それを一歩離れたところから見る観客の目には、あの人が勝手にふるまって、あの人たちが迷惑がっている、と見える。でも、人が集まって共同作業をするのであれば、話し合いをして進めたにしても、部分的には「自分勝手な振る舞い」をせざるを得ない。そうしている自分自身はそのように気が付かないにしても。
だから自分の思いを貫くことが悪いということではない。共同作業で何かを仕上げるということは、まわりに段取りや後片付けをしてくれる人がいて、そういう人たちに支えられているということだ。映画の撮影でいえば、撮影隊が自前で用意したスタッフが分担して段取りや後片付けをしているし、そのほかにも、ロケ地の地域住民もいろいろな形で積極的・消極的に撮影を支えていたりする。目に見えない支えがあるからこそ、表舞台に立つ作品ができあがる。
『歓待』は、おそらく世界を股にかけて成功してまわる加川花太郎に1つの焦点を当てながら、その活躍を実際に支えている幹夫や夏希たちの戸惑いと対応を描いて見せた。華々しく活躍するコスモポリタンの成功の陰には、それぞれの土地で段取りや後片付けをしながらそれを支える人たちがいる。そして、そんな物語を描いた作品である『歓待』の完成をまわりで支えた人たちを描いたのが『少年少女』という仕組みになっている。さらに、おそらくそのまわりには、映像作品では語られないけれど、ロケ地である八広の人たちのそれぞれの物語があるのだろう。