『マジック&ロス』−魂でつながる「もう1つの東アジア世界」

マレーシア出身のリム・カーワイ監督の第2作。監督の製作意図は大阪アジアン映画祭のQ&Aで明らかにされて会場から驚きをもって迎えられたけれど、それはそれとして、私は別の解釈でこの作品をとても興味深く観た。以下、私の解釈による「マジック&ロス」の内容。説明をわかりやすくするために断定調で書くが、例によって私の深読み以外に根拠は全くない。


キキとコッピ(とほかの2人の乗客)を乗せた船が島に到着する。館内放送は英語。安全のために着席してくださいと放送しているのに立って写真を撮っているキキは英語がわからないのかと思ったけれど、そうではないようだ。島は森が深く、見る限りホテルのような建物が1つあるだけ。どうしてそう思うかの説明は省略するが(そしてこれは監督の意図とは違うそうだが)、この島は日中韓の東アジア世界の墓所というか、魂のリゾート地のようなもの。島には、ビーチがあるし、バーや学校もあって、子どもや大人や家族など、それぞれのあり方に応じて落ち着く場所がある。魂はどんどん増えていくので、岩を動かしたりして収容施設を増やしている。
この島が魂の落ち着き場所だとすれば、船でこの島にやってくるのは死んだばかりの魂ということになる。島に着いて、行く先が決まっている魂はそこに行く。船に乗っていたのは4人だったが、キキとコッピ以外の2人は落ち着き先が決まっていたのだろう。船から降りたらいなくなっていた。
キキとコッピが泊まったホテルは、落ち着き先が決まっていない「わけあり」の魂がまず身を置くところ。そこでの滞在中に落ち着き先が決まるとチェックアウトして落ちつき先に向かう。クーポンを使っていたのは「この世」ではないため。ホテルの男は「あの世」への門番で、門とセットの存在。だから門が映される場面が何度か入る。


キキとコッピははじめ別々にチェックインするけれど、あとでダブルベッドの部屋にチェックインするということは、2人は1人の存在。でも映画の視点からは2人いて、ホテル滞在中に2人の中身が入れ替わる。滝からの帰り道でコッピのハンドバッグをキキが持っている。髪型や言葉使いや部屋での過ごし方が入れ替わる。ただし、単に2人が入れ替わっているだけではなく、シンクロして1人になっていく。それがわかるのはビールの飲み方。2人が出会ったばかりのころにビールをラッパ飲みしたとき、キキはビンの底の方を持ち、コッピはビンの首の部分を持って飲んでいた。後で2人が入れ替わってバーで飲んだときに、ビンを持つ手の場所が入れ替わっていれば2人が入れ替わったということだろうけれど、どちらも底の方を持っていた。ということは1人になっていったということか。
どうして1人になっていったのか。入れ替わるきっかけは滝の水音だし、元に戻るのはビンが倒れた音だけれど、その原因は化粧品と関係しているのではないか。もともとこのホテルは落ち着き先の決まっていない魂が仮に滞在するところ。落ち着き先が決まれば島の別の場所に移っていくか、あるいは「あの世」での落ち着き先が決まらずに「この世」に逆戻りする(現世で見れば「生き返る」)こともあるかもしれない。つまり、このホテルでは魂を「あの世」に定着させるための仕掛けがある。その仕掛けは、「あの世」のものを食べたり飲んだりして体内に取り込むこと。門番が食事やバーに誘ったのもそのためだし、「化粧品」もそう。あのホテルで「化粧品」というのは、実際の化粧品のことではなく、それを体内に取り込むと「あの世」に定着するものの暗号。だからコッピはキキの歯ブラシに化粧品をかけて口から取り込ませようとした。門番がコッピに「化粧品を使ったか」と聞いたのは「化粧品を飲ませたか」という意味。


キキが高校卒業のときにおばあさんにもらったというネックレスがなくなっていたのは、そこにおばあさんの魂が宿っていて、それがコッピの姿を借りて現れたため。ということはコッピはキキのおばあさん。
おばあさんなのにどうしてキキと似たような年恰好の姿で現れたのか。島に来るいろいろな魂のうち20歳前後の魂が「わけあり」としてこのホテルに泊まるので、それを迎える魂はその魂と同じ年恰好になるからと考えてはどうか。
韓国では最近成人年齢の19歳への引き下げが決まったそうだが、日本では20歳、中国は18歳、ついでにマレーシアは21歳で、20歳前後というのは東アジア社会で子どもが大人になる変わり目の時期だ。だから、それよりも幼いと一括して「子ども」という扱いになるし、それよりも年をとっていれば固有名を持つ一人前の人物として扱われるけれど、ちょうど18歳から21歳ぐらいまでの時期は「この世」でも正体がはっきりしない存在だ。だからその魂は「あの世」でも行き場所が定まらず、まずはホテルに一時滞在することになる。頭も身体ももう子どもではないのだけれど、でも社会的にはまだ何物でもない存在。それがあのホテルに集まることで・・・というこの先に何か見つかると話がしまるのだけれど力不足でちょっと思いつかない。


では、コッピ=おばあさんはどこに行ったのか。魂の落ち着き先があやふやな状態を利用して働きかけようとする魂もいて、キキのおばあさんの魂が現れて、キキと入れ替わって別の場所に行ってしまったと考えてはどうか。
最後にキキに電話がかかってきた。あの島は魂の世界で、あの作品世界では「この世」との連絡手段は船と電話だけだった。そこに外部から連絡があるとしたら、連絡元は「この世」ということになる。あの電話は部屋を出て行ったコッピが置いて行ったものなので、電話をかけてきたのはコッピで、「この世」からかけてきたということになる。「この世」に行ったということは、コッピは現世では「生き返った」あるいは「生まれ変わった」ということだろう。この電話でキキはコッピ=おばあさんから事の顛末を知らされるのではないか。行き場を失ったキキの魂は、ほかの魂たちと同じように彫像になり、門番に磨かれながら次の魂が来るのをあのホテルで待つことになる。(ただし、どうしておばあさんがキキをそんな目に遭わせてまで「この世」に戻らなければならなかったはうまい解釈が見つからない。)


いくつかの場面で漢字が出てくる。キキとコッピは日本と韓国から来たので、1つ1つの漢字はわかるけれど、全体での意味はわからない(はず)。そこにもう1人、中国から来た魂がいて、その魂が見ても漢字の全体の意味がわからないという場面があると、漢字という共通のものを持つ魂の世界であるけれど現実世界とは違う世界という印象を強めることになったかもしれない。漢字文化を共有する人々の末裔ではあるけれど漢字がわからない人々。これは、この映画の東アジア性(というべきか日中韓というべきか)と関わっている。
キキとコッピの入れ替わりが成り立つのは、キキとコッピが日本と韓国の出身だからだろう。バーで3人でじゃんけんのようなものをする場面では、ルールの確認がなく突然ゲームが始まり、負けた人は指二本で手首のあたりを叩かれるしっぺの罰ゲームを受けるが、3人は何の違和感もなくこのゲームをしていた。罰ゲームとしてのしっぺは日本と韓国で見られるが、中華文化では酒の場のゲームの罰ゲームは酒を飲むのが定番のはずだ。だから、もしキキとコッピが日本と中国とか中国と韓国とかいう組み合わせだったら入れ替わりの話がうまくいかないところだった。
この作品には木や洞窟や廃墟などの自然(廃墟は人工物だけれどほとんど自然と化している)に漢字が浮き上がっているところが何とも怪しげな雰囲気を漂わせている。でも、漢字に象徴されているように全体として中華文化の枠内にあるにもかかわらず、中華文化の色がとても薄くなっている。キキとコッピが日本と韓国の文化を背負っているために交換可能になっているためで、ちょっと極端に言えば、中華文化の覇権を伴わない日韓の関係の可能性を読むこともできそうだ。
もしそうだとしたら、どうしてそんな作品が作られたのか。主演の2人は日本と韓国の出身だけれど、監督はマレーシア華人で、どちらかと言えば中華文化と結びつく存在だ。だから中華文化の色が濃くなっていてもおかしくないはずだけれど、そうなっていないのは、リム監督は中華文化を背負ってはいるものの中華世界のメインストリームに落ち着いていない存在だからかもしれない。日中韓の東アジア世界は中華抜きには作れないけれど、いつも中華を中心にするのではなく、日韓そして在外中華が手を取り合うことで中華色を薄めた東アジア世界を作るという「もう1つの東アジア」の可能性が開かれるかもしれない。『マジック&ロス』は、監督の意図とは大きく違うだろうが、そんな物語として読み解くこともできるのではないだろうか。


というのは私の解釈で、リム・カーワイ監督はそれとは別の物語を想定していたようだ。私は監督の製作意図を気にせずに自分の解釈の世界を膨らませられるこのような作品は嫌いではないが、大阪アジアン映画祭の2回のQ&Aを見ていると、この映画はわかりにくいという印象を受ける人も少なくないようだ。
でも、リム監督はそのことはわかっていて、あえてこのような作品を作り続けているのではないかと思う。まわりにいろいろアドバイスしてくれる人がいて、それにしたがってわかりやすくすることもできるけれど、Q&Aでステージに立つ様子を見ていると、あえてそうはしないという強い決意が感じられる。CO2と大阪アジアン映画祭で3回のQ&Aを見た。リム監督は、ジーンズを履き、片手をポケットに突っ込んだままでQ&Aを行った。
日本での暮らしが長く、日本語をはじめとする日本人の行動様式になじんでいるとはいえ、マレーシアでの行動様式を忘れているはずはない。外見をとても重視するマレーシアでは、舞台に上がるのにジーンズは履かないし、片手をポケットに突っこんだままで話をするなんてありえない。そのことはもちろんリム監督もよくわかっているはずだ。ポケットに手を入れたままでステージに立ったのは1度だけではない。ということは、意識してそうしているということだろう。
その場の論理になじんで風当たりがないように振る舞うこともできなくはないけれど、自分はあえてその場の雰囲気にしたがわずにやっていくという気持ちの表れで、それを場の雰囲気に呑まれないように後に引けないように自分を追い込むための手段の1つが、わざと片手をポケットに突っこんで話をしてみせるというスタイルなのではないか。「わかりにくい」と言われながらも安易にセルアウトせずに自分の主張を通そうとしているところが、同じマレーシアのホー・ユーハン監督の『レインドッグ』にも通じて、リム監督がどんなメッセージを伝えたがっているのかをこれからも見続けていきたいと思う。